第15話 神狼のしゃぶしゃぶと、屈服の味
山頂の風が止み、そこには異様な光景が広がっていた。 敗北して涙目で座り込む巨大な狼と、その鼻先で鍋を囲む料理人と少女。
「よし、準備はいいか」
ボルグは、奪い取ったばかりのフェンリルのハラミ肉を、魔剣グラムで透けるほどの薄さにスライスして皿に並べた。 美しいピンク色の身に、雪の結晶のような白いサシが入っている。
「スープは、さっきのポトフの汁を使う。クジラとカニの出汁が出まくった最強のスープだ」 「は、はい……! いただきます!」
リズが箸で薄切り肉をつまみ、グツグツと煮立つ鍋の中へ。
――しゃぶ、しゃぶ。
湯の中で肉が踊る。 一瞬で表面が桜色に変わる。 加熱しすぎない、ミディアム・レアの状態。それを引き上げ、ポン酢(柑橘の果汁と醤油を合わせたもの)にサッとくぐらせる。
「んむっ……!」
口に入れた瞬間、リズが奇妙な声を上げた。
「あ、熱っ……えっ!? 冷たっ!?」
熱々のスープを吸っているはずなのに、噛んだ瞬間、肉から清涼な風が吹き抜けたような感覚が襲ってきたのだ。 これが『冷たい炎』。 フェンリルの魔力を帯びた脂は、熱で溶けると強力な冷気を放つのだ。
「熱いのに、口の中がスースーします! まるで極上のミントを食べているみたい! でも味は濃厚なお肉で……脂が甘くて、重くない! いくらでも入ります!」 「冷気が脂っこさを中和しているんだな。……なるほど、こいつは面白い」
ボルグも肉を頬張り、ニヤリと笑う。 濃厚な旨味の爆弾と、爽快な冷気の余韻。 熱い鍋料理なのに、汗一つかかない。不思議な食体験だ。
『……ごくり』
横で見ていたフェンリルの喉が、大きく鳴った。 自分の肉を食べられているという恐怖よりも、鍋から漂う「クジラとカニと野菜の芳醇な香り」が勝ってしまったのだ。
「なんだ、食いたいのか?」 『た、食べるわけなかろう! それは我の肉だぞ! 共食いだぞ!』 「安心しろ。鍋の中にはまだクジラの肉も残ってる」
ボルグは鍋の具材と、しゃぶしゃぶした自分の肉(フェンリル肉)をたっぷりと椀によそい、無造作に差し出した。
「食って体力を戻せ。痩せたら肉の味が落ちるからな」 『き、貴様……どこまでも我を家畜扱い……』
フェンリルは屈辱に震えながらも、抗えない食欲に負け、恐る恐る椀の中身を舐めた。
『……!?』
巨大な狼の目が、驚愕に見開かれる。 美味い。 なんだこれは。 数千年生きてきたが、生の肉を貪るだけで、こんな複雑な味を知らなかった。 野菜の甘み。魚介のコク。そして、熱を通すことで活性化した自分自身の肉の旨味。
『う、美味い……! なんだこの汁は! 五臓六腑に染み渡るわ!』
ガツガツガツッ! プライドは消え失せた。フェンリルは夢中で鍋の中身を貪り食った。
『おかわりだ! 人間、もっとよこせ!』 「いい食いっぷりだ。だが、代金はもらうぞ」
ボルグは空になった鍋を見せ、冷徹に言い放った。
「代金は『その肉』だ。今後、俺がここに来たら、そのハラミ肉を定期的に提供しろ」 『な、なにィ!?』 「嫌なら、今ここで残りの肉も全部ステーキにするが」 『ま、待て! わかった! 契約だ! 契約する!』
フェンリルは涙目で首を縦に振った(振らされた)。 こうして、「神獣」は「定期食材提供者」へとランクダウンした。
*
下山する頃には、吹雪は完全に止んでいた。 ソリには、依頼の品である「フェンリルの肉」と、フェンリルから手切れ金代わりに渡された「氷の魔石(永久保冷剤)」が積まれている。
「すごいですねボルグさん! あの神狼を手なずけちゃうなんて!」 「手なずけてはいない。利害が一致しただけだ」 『どこがだ! 完全なカツアゲだったぞ!』
魔剣グラムが呆れ果てた声を出す。
ともあれ、これで北のミッションは完了だ。 エレナへの土産もできた。 そして何より、ボルグの「移動食堂」のメニューに、伝説の『神狼しゃぶしゃぶ』が加わった(裏メニューだが)。
「次はエレナに報告して、報酬をもらう。……その金で、もっといい調味料を揃えるぞ」
ボルグは懐の地図を取り出す。 北の次は、東か、南か。 この世界のどこかに、まだ見ぬ味が待っている。
空には美しいオーロラがかかり、満腹の料理人たちの旅路を祝福しているようだった。




