第13話 頂上の静寂と、誘惑のポトフ
氷獄の山脈、その頂。 そこは、死の世界のように静まり返っていた。 猛烈な吹雪は嘘のように止み、雲海が足下に広がっている。 空はどこまでも高く、深い蒼色に染まっていた。
「……いない、ですね」
リズが小声で囁く。 見渡す限り、岩と氷だけの荒野だ。伝説のフェンリルの姿はおろか、生き物の気配すらない。
『いや、いるぞ』
魔剣グラムが、かつてないほど緊張した声を脳内に響かせた。
『気配を断っているが、空間そのものが歪んでいる。どこかから見ているぞ。……おい人間、気を抜くなよ。瞬きした瞬間に首が飛ぶぞ』 「わかっている」
ボルグはキッチンカーを止め、周囲の地形を確認した。 フェンリルは賢い。 ただの狩人が来れば襲いかかるだろうが、自分たちのような「得体の知れない存在(魔剣持ちの料理人)」に対しては、慎重に距離を取って観察しているのだ。
「向こうが出てこないなら、招待状を送るしかないな」
ボルグは荷台から、最大の寸胴鍋を取り出した。
「招待状って……まさか」 「風向きは最高だ。ここから匂いを流せば、山の裏側に隠れていようが鼻孔を直撃する」
*
即席の野外キッチンで始まったのは、これまでの旅の集大成とも言える煮込み料理だった。
まずは、氷雪クジラの皮下脂肪(本皮)を細かく刻み、鍋底で炒める。 大量の脂が溶け出し、甘く濃厚な香りが広がる。 そこへ、大きくぶつ切りにしたクジラの赤身肉と、金剛雪蟹の剥き身を惜しげもなく投入。
ジュウウウゥッ……!
肉と魚介の焼ける音が、静寂の山頂に響く。 表面を焼き固めたら、雪解け水を注ぎ、香味野菜(タマネギ、セロリ、ニンジン)を丸ごと放り込む。
「味付けはシンプルに、岩塩と、数種類のハーブ。そして隠し味に白ワインを一本」
グツグツ、コトコト。 鍋から立ち上る湯気は、暴力的なまでの「旨味の塊」だった。 クジラの脂のコク。 カニの濃密な出汁。 それらが野菜の甘みと融合し、白ワインの芳醇な香りが全体を上品にまとめている。
『北の海の幸・贅沢ポトフ』。 その香りは風に乗り、岩陰を抜け、頂上の全域へと拡散していく。
「あぅ……お腹が、お腹が痛くなるくらい美味しそうな匂いです……」 リズが耐えきれずに生唾を飲み込んだ。 その時だった。
ピクリ。 ボルグの眉が動いた。
「……来たか」
音はなかった。 だが、圧倒的な「圧」が背後から迫っていた。 振り返ると、岩山の上に、それが座っていた。
銀色の毛並み。 体高は五メートルを超え、その瞳は透き通るような氷の青。 神々しいまでの美しさを持つ巨狼――フェンリルだ。 狼は、鍋から立ち上る湯気をじっと見つめ、それから人間のような流暢な言葉を紡いだ。
『――よい香りだ』
鈴を転がすような、しかし腹の底に響く声。
『久方ぶりに目が覚めたと思えば、我が庭で煮炊きをする不届き者がいるとはな。……人間よ、それは我への供物か?』 「そうだと言ったら?」 『食ってやろう。その代わり、貴様らの命は見逃してやる。……久方ぶりに腹が減った』
フェンリルの口元から、タラリとよだれが垂れた。 神獣といえど、空腹には勝てないらしい。 リズが「あ、あげましょう! 食べていただいて、帰ってもらいましょう!」とボルグの袖を引く。
だが、ボルグは鍋の蓋を閉じた。 カポッ。 香りが遮断される。
『……何をする?』 フェンリルの目が険しく細められた。周囲の気温が一気に下がる。
「勘違いするな。これは供物じゃない。『餌』だ」 『あ?』 「俺が用があるのは、あんたの肉だ。『冷たい炎』の味がするっていう、その極上の霜降り肉を借りに来た」
ボルグはゆっくりと、腰の魔剣に手をかけた。
「このポトフが食いたければ、力ずくで奪ってみろ。……もっとも、俺が勝てば、あんたもこの鍋の具材になるんだがな」
『……ハッ』
フェンリルが、ニタリと笑った。 美しい顔が、獰猛な捕食者のそれへと歪む。
『面白い。数百年ぶりに現れたか、我を「食材」と呼ぶ狂人が。……いいだろう、料理人。その命とポトフ、まとめて頂くとしよう!』
ガァァァァァッ! 咆哮と共に、フェンリルが跳んだ。 まるで銀色の閃光。
「リズ、鍋の火加減を見ておけ! 煮込み過ぎるなよ!」 「ええええっ!? この状況で!?」
ボルグもまた、魔剣を抜き放ち、神速の狼へと迎撃に向かう。 頂上決戦のゴングは、鍋の煮える音と共に鳴らされた。




