第10話 蒸気都市と、鯨肉のレアステーキ
雪山の向こうに現れたのは、白い蒸気を吐き出す巨大な鉄の街だった。 北の交易都市『ヴァルカン』。 地下の地熱を利用した蒸気機関が発達しており、街中のパイプから常に温かい蒸気が漏れ出しているため、雪国でありながら道路には雪がない。
「あったかい……! 生き返りますぅ……」
ソリから車輪に戻したキッチンカーの御者台で、リズが外套を脱ぎ捨てる。 ボルグは周囲の喧騒に目を細めた。 活気がある。荷馬車が行き交い、労働者たちの怒号と笑い声が響く。 つまり、腹を空かせた客が山ほどいるということだ。
「ここで店を開くぞ。氷雪クジラの肉を金に換える」 『ふん、ようやく人間らしい街か。ここなら我を崇める信徒もいそうだな』 「いいや。ここでのお前の役目は『フライ返し』だ」 『は?』
*
大通りから一本入った広場。 ボルグはキッチンカーの側面を跳ね上げ、即席のカウンターを作った。 メニューは一つ。『氷雪クジラのガーリック・レアステーキ』。
厚さ三センチに切り出したクジラの赤身肉。 塩胡椒を振り、ニンニクの薄切り(チップ)を熱した油に投入する。 食欲をそそる香りが、蒸気に乗って広場中に拡散された。
「おい、なんだあの匂いは!」 「肉だ! とびきり上等な肉の匂いがするぞ!」
鼻の利く労働者たちが集まってくる。 ボルグは鉄板の温度が最高潮に達したのを見計らい、肉を投じた。
ジュゥゥゥゥゥ――ッ!!
激しい音と共に、煙が立ち上る。 クジラの肉は火を通しすぎると硬くなる。勝負は一瞬だ。 表面に焼き色がついた瞬間、ボルグは魔剣グラムを差し入れた。
『熱い熱い! 鉄板に押し付けるな! 我の顔(刀身)が油まみれだ!』 「ひっくり返すぞ。踏ん張れ」
幅広の剣身を肉の下に滑り込ませ、手首を返して豪快にターン。 裏面を数秒焼いたら、仕上げに醤油とバターを落とす。
ジューッ、パチパチパチ! 焦げた醤油とバターの芳醇な香りが爆発し、観衆から「おおっ!」とどよめきが起きた。
「はい、お待たせしました! 『特製クジラステーキ』です!」
リズが客に皿を渡す。 労働者の男が、ナイフを入れた。 スッ……。 ほとんど抵抗がない。中は鮮やかな薔薇色のレア状態だ。
「う、美味ぇッ!」
男が目を見開く。 赤身の肉は、マグロと牛肉のいいとこ取りをしたような濃厚な鉄分と旨味がある。 そこに絡むガーリックバター醤油のパンチ力。 労働で疲れた体に、タンパク質と塩分が染み渡る暴力的な美味さだ。
「なんだこの柔らかさは! これ本当にクジラか!?」 「飯だ! パンをくれ! ソースを拭って食いてえ!」
屋台は瞬く間に行列に包まれた。 リズがお金の計算に悲鳴を上げ、ボルグは無心で肉を焼き、魔剣は「我は伝説の……」「くっ、バターがいい匂いなのが悔しい……」と葛藤しながら肉をひっくり返す。
その行列の最後尾に、一人の人物が立っていた。 深々とフードを被っているが、その隙間から鋭い眼光が覗いている。
「……オヤジ。一つくれ」
凛とした、だが低い女の声だった。 ボルグは肉を焼きながら、ふと手を止めた。 その声に、聞き覚えがあったからだ。
「焼き加減は?」 「ベリーレアだ。……昔みたいにな」
ボルグは無言で最高級の部位を切り出し、さっと炙って出した。 女はそれを受け取ると、フードを少しだけ持ち上げた。 右目に眼帯をした、銀髪の美女。 だがその肌には無数の古傷があり、腰には軍刀を帯びている。
「……やはりか。このソースの味、戦場の泥臭さを消すための工夫。貴様だな、ボルグ曹長」
リズが「お知り合いですか?」と尋ねる。 ボルグは小さくため息をつき、魔剣についたソースを拭った。
「元・上官だ。……『氷の魔女』こと、エレナ将軍」
「今はただのギルド支部長だ、脱走兵殿」
エレナと呼ばれた女は、ステーキを口に運び、恍惚とした表情で咀嚼した。
「……ん。腕は落ちていないようだな。貴様を探していたぞ、ボルグ」
彼女の眼帯の奥にある瞳が、ギラリと光った。 それは食欲か、それとも別の感情か。
「貴様に依頼したい『極上の食材』がある。……北の果てに眠る、伝説の『フェンリル』だ」
屋台の湯気越しに、ボルグと元上官の視線が交錯する。 ただのグルメ旅は、ここに来て過去の因縁を巻き込み始めた。




