第1話 退役兵と、封じられし災厄
地下迷宮の最奥、湿った空気が肺にへばりつくような場所だった。カツン、カツンと、石畳を叩くブーツの音だけが響く。
ボルグは立ち止まり、一つため息をついた。白髪交じりの短髪に、無精髭。頬には古傷が走り、着古した革鎧からは染みついた硝煙と鉄錆の匂いが漂っている。年齢は五十を過ぎた。三十年にわたる帝国軍での奉職を終え、昨日、正式に退役したばかりだ。
「……ここか」
松明の頼りない明かりが照らし出したのは、祭壇らしき石台だった。その中央には、一本の剣が突き立っている。禍々しい紫色の燐光を放ち、周囲には無数の骸骨が転がっていた。かつてこの剣を求め、そして魅入られ、命を吸い尽くされた英雄たちの成れの果てだ。
――魔剣グラム。一振りで城壁を崩し、所有者の精神を食らって殺戮人形に変えるという、神話級の災厄。
ボルグはその前に立つと、臆する様子もなく「ふむ」と唸った。
『――愚かな人間よ』
脳髄に直接、氷のような声が響いた。祭壇の剣が脈打つように明滅する。
『我はグラム。血と絶望を啜る者。貴様もまた、あのような力無き骸となるか。それとも我を手にし、世界を恐怖で染め上げる覇王となるか……』
圧倒的な威圧感。常人ならば、この声を聞いただけで発狂していただろう。あるいは、力への渇望に溺れ、涎を垂らして剣に飛びついたに違いない。
だが、ボルグは眉一つ動かさなかった。彼はゆっくりと祭壇に歩み寄ると、分厚く硬くなった掌で、恐れることなく剣の柄を握った。
『ほう?我の瘴気に耐えるか。面白い。貴様、名はなんと言う?』「ボルグだ」『ボルグよ。貴様の魂の奥底にある闇が見えるぞ。戦場で多くの命を奪ってきたな?その虚無、その飢え……我ならば満たしてやれる』
魔剣の囁きは甘美だった。ボルグの脳裏に、かつての戦場の記憶が蘇る。焼け焦げた大地、仲間の死体、断末魔の合唱。彼は「戦鬼」と呼ばれた。敵を叩き潰すことしか能がない、不器用な兵士だった。
しかし。ボルグは、剣を引き抜く前に、その刀身をじろじろと観察し始めた。
「……刃渡りは三尺。反りは浅めか」『あ?』「重心は手元寄りだな。これなら細かい作業も利くか」『おい、何の話をしている』「峰の厚みも十分だ。これなら叩き切っても刃こぼれせん」
ボルグは腰のベルトから、ボロボロになった鉄のナイフを取り出し、魔剣の横に並べて見比べた。長年の従軍で使い潰されたそのナイフは、刃がノコギリのように欠けている。
「先日の遠征でな、ロックタートルの甲羅を捌こうとしたんだが、手持ちの刃物が全滅してな。軍支給の剣じゃあ、筋一本切れやしなかった」『……は?亀?』「退役したら、故郷の村外れで小さな食堂をやるつもりなんだ。だが、俺が扱いたい食材は普通の包丁じゃ刃が立たん。ミスリル製の特注品を買う金もないしな」
ボルグは、はあと息を吐くと、一気に魔剣を引き抜いた。ズズズ、と重い音が響く。解き放たれた魔力が奔流となって洞窟内を駆け巡り、天井の鍾乳石が震えた。
『ククク……ハハハ!抜いたな!これでもう後戻りはできんぞ!さあ、まずは血だ!我に温かい血を吸わせろ!手始めにそこの街を一つ焼き払うか!?』
魔剣が歓喜の声を上げる。ボルグはその刀身を布で丁寧に拭うと、満足げに頷いた。
「切れ味は申し分なさそうだ」『当然だ!我はドラゴンの鱗すら紙のように切り裂く!』「よし。採用だ」『……ん?』
ボルグは背負っていた巨大な背嚢を下ろすと、中から手際よく巨大な肉塊を取り出した。迷宮へ来る途中に仕留めた、レッサーワイバーンの太腿肉だ。岩のように硬い皮と、鋼のような筋肉に覆われている。
「おい、待て。貴様、何をする気だ」「じっとしてろ。まずは皮を引く」『は?』
ズンッ。ボルグが無造作に魔剣を振り下ろす。普通の剣ならば弾かれるワイバーンの硬皮が、まるで濡れた紙のように音もなく切断された。
『ギャアアアアアアッ!?貴様ァッ!我は魔剣だぞ!?神殺しの武器だぞ!?何故、家畜の死体を切らねばならんのだッ!』「騒ぐな。肉に妙な魔力を流すんじゃない。味が落ちる」『味だと!?』
ボルグの目つきが変わった。戦場で見せた「戦鬼」の目ではない。職人の目だ。手首のスナップを利かせ、魔剣を精密に操る。骨と肉の隙間に刃を滑り込ませ、関節を一瞬で外す。その手際は、剣術というよりは解剖に近い。あるいは、芸術的なまでの料理だった。
「いいぞ……。今までどんな名剣を使っても、骨に当たれば感覚が鈍った。だが、お前は違う。骨ごと断てるのに、感触が手に伝わってくる」
ボルグは恍惚とした表情で、切り分けた肉を焚き火の上の鉄板に放り投げた。ジュウウウゥッ、と脂の弾ける音が洞窟に響く。魔剣の刀身についた脂を拭き取りながら、老兵はニヤリと笑った。
「お前はいい包丁になる」『ふ、ふざけるなァァッ!我の尊厳は!?呪うぞ!貴様を呪い殺してやる!』「呪いか。肩こり腰痛が治るなら歓迎だがな」
ボルグは焼き上がったワイバーンのステーキを口に運ぶ。粗塩だけの味付けだが、噛みしめるほどに野性味溢れる肉汁が溢れ出す。
「……美味い」
三十年間、泥水をすするような戦場で、乾パンと干し肉しか食べてこなかった。退役して最初の食事が、これだ。悪くない。
『おい、無視するな!聞いているのか人間!』「これからは相棒と呼んでやる。よろしく頼むぞ、グラム」『誰が相棒だ!血をよこせ!魂をよこせ!』
ボルグは喚き散らす魔剣を適当になだめながら、鞘――これまた硬い魔獣の皮で作った特製品――に強引に押し込んだ。背中には背嚢。腰には伝説の魔剣(包丁)。
「さて。次はもっと脂の乗った獲物を探すか」
老兵ボルグの第二の人生は、こうして幕を開けた。彼が目指すのは、世界一美味いものだけを出す、小さな食堂。その厨房で振るわれるのが、世界を滅ぼす魔剣であることは、まだ誰も知らない。




