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幸福メーターの針が止まった日

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/18

 幸福メーターが配られたのは、三年前の春だった。

 桜が咲ききる前に散ってしまった年のことで、テレビもネットも、その話題で持ちきりだった。


 腕時計より少し細いくらいの銀色のバンドだ。内側には柔らかい樹脂が貼られていて、肌に密着するようになっている。

 これを利き手とは逆の手首に巻くと、内蔵されたセンサーが脈拍や発汗、表情筋の動き、音声の抑揚、さらには位置情報や購入履歴、SNSの投稿内容などに総合点をつけて、その人の「幸福度」を0から100までの数字で表示する。


 名前は、そのまんま「幸福メーター」。

 開発したのは、国の外郭団体だとか、民間企業だとか、いろいろ言われていたが、詳細ははっきりしなかった。ただ一つ確かなのは、政府がこれを非常に気に入ったということだ。


 僕はそのころ、市役所の「市民福祉部・幸福推進課」に配属されたばかりだった。

 部署の名前を初めて見たとき、冗談だと思ったのをよく覚えている。


 課長は真面目な顔で言った。

「これからは、福祉より幸福だ。数字にできなければ、予算もつけにくい」

 冗談に聞こえたが、どうやら本気だった。


 幸福メーターは、最初から義務ではなかった。

 希望者に無料配布し、つけてくれる人がどのくらいいるのかを見る「社会実験」だという説明だった。それでいて、ニュース番組に出演した専門家たちは、一様にこう言った。

「画期的な取り組みです。幸福を科学し、可視化することで、よりよい社会づくりに生かせるでしょう」


 実際、申し込みは殺到した。

 健康診断の延長のような感覚だったのかもしれない。自分の幸福度が数字でわかると聞けば、つい試してみたくなるのが人間というものだ。


 僕も興味本位で申し込んだ。

 配布会場で受け取った銀色のバンドは、見るからに高価そうだった。職員用の簡易マニュアルには、こう書かれている。


 ──着用中の幸福度は、随時クラウドに送信されます。

 ──個人を特定できる形では公表されません。

 ──幸福度が一定以上高い場合、行政からの支援メニューが増えます。


 最後の一文を見たとき、僕は眉をひそめた。

「支援メニューが増えるって、なんですか」

 隣の席の先輩に聞くと、彼は笑いながら言った。

「まぁ、クーポンとか、優先枠とか、そういうやつだよ。予算の取りやすい施策を考えないと、こっちも生きていけないだろ」


 僕は、なんとなく嫌な予感がした。

 それでも「社会実験」なのだから、少ししたら終わるだろうと思っていた。


 僕が初めて幸福メーターを腕に巻いた日、表示された数字は「43」だった。

 高いのか低いのかもわからなかったが、少なくとも誇れる値ではなさそうだった。


 隣の席の先輩は得意げに腕を見せてきた。

「見ろよ、68だ。まあまあだろ」

「何が違うんでしょうね」

「恋人いるかどうかじゃないか」

 先輩は笑ったが、その笑いが本気かどうかはわからなかった。


 やがて、幸福メーターの数字はテレビ番組やニュースサイトで「話題」として取り上げられ、SNSには「今のわたしの幸福度」というスクリーンショットが溢れた。


 そのうち、政府はひっそりと、一つの方針を発表した。


 ──一定以上の幸福度を継続している世帯に対し、子育て支援や住宅支援、医療費助成などを優先的に行う。

 ──具体的な支援内容は自治体ごとに決定する。


 当然、市役所にもお達しが来た。

 課長はホワイトボードに大きく「幸福度70以上」と書き、こう言った。

「とりあえず、ここがラインだ。70以上を三か月維持した世帯には、支援メニューを拡充する。市としても『幸福都市』としてアピールできる」


 僕は内心でため息をついた。

 僕の幸福度は、まだ40台後半をうろうろしていた。


 制度が始まると、市民からの問い合わせが殺到した。

「どうすれば幸福度を上げられるのか」

「うちは子どもが三人もいるのに、六十五から上がらない。おかしいじゃないか」

「隣の奥さんはいつも笑っているのに、うちは無表情だから損をしているのではないか」


 幸福推進課の窓口は、いつも人でいっぱいになった。

 僕たちが手渡すのは、簡単なパンフレットだ。


 ──よく眠りましょう

 ──よく笑いましょう

 ──感謝の言葉を口に出しましょう

 ──前向きな言葉をSNSに投稿しましょう


 どこにでもある「ポジティブ思考」の勧めだ。

 しかし、ここではそれが、支援の条件になっている。


 パンフレットを受け取った人の多くは、渋い顔をした。

 それでも、やがて街には変化が現れ始めた。


 人々はよく笑うようになった。

 少なくとも、「笑っている顔」を見せるようになった。


 通勤電車の中で、向かいの席の会社員たちは、同じような角度でスマホを掲げ、自撮りをしている。

「今日も幸せです」「家族に感謝」「仕事があるだけでありがたい」。

 そんな文章とともに、幸福メーターのスクリーンショットを添えて投稿し、そこに#幸福70#目指せ80といったハッシュタグをつける。


 僕のタイムラインは、いつの間にか似たような笑顔で埋め尽くされていた。

 それなのに、幸福メーターの表示は、なかなか70には届かなかった。


 ある日、帰り道で、アパートの前の公園を通りかかった。

 ブランコに座っている女の子が、しきりに腕のバンドをたたいていた。

「なんでよ。なんで上がらないのよ」

 隣で母親が、作り笑いのような顔でスマホを構えている。

「ほら、もっと笑って。『今日も楽しい公園遊び』って書くのよ」

 少女は泣き出しそうな顔で、無理やり口角を上げた。


 その光景を見て、僕の幸福度の数字は、一瞬だけぐんと下がり、そのあとすぐに元に戻った。


 幸福メーターは正直なのか、不正直なのか。

 僕には判別がつかなかった。


 そんな日々が一年ほど続いたころ、政府は第二段階の方針を発表した。


 ──平均幸福度を80に引き上げる。

 ──達成できない自治体には、交付金を削減する。


 課長は会議室で頭を抱えた。

「目標値というのは、どうしていつも上のほうにしかないんだろうね」

 僕たち若手職員は苦笑するしかなかった。


 そのころから、幸福メーターには「アップデート」が頻繁に配信されるようになった。

 新しいアルゴリズムが導入され、「ポジティブな投稿」や「近所づきあいの良さ」が、より高く評価されるらしい。


 街には「幸福サークル」や「笑顔体操教室」が次々に開設された。

 みんなで集まって感謝を言い合い、褒めあい、写真を撮ってSNSに上げる。

 幸福メーターも連動していて、その場で数字が上がると、参加者はほっとした顔をした。


 僕の隣の席には、新しく配属された女性職員が座った。

 斎藤さんという、少し猫背で、目元にクマのあるひとだ。

「前はどこの部署だったんですか」

 と聞くと、彼女は淡々と答えた。

「生活保護担当です。仕事が減ってきたので、こちらに回されました」

「減ってきた?」

「ええ。幸福度の高い人には、いろんな支援が行くようになりましたから。申請に来る人が減ったんです」

 そう言う彼女の幸福度は、袖口からのぞく小さな表示によれば「78」だった。

 僕よりずっと高い。


 ある日、斎藤さんはぼそりと言った。

「最近、窓口に来る人の顔が、前より怖いです」

「怖いって、怒っているとか?」

「いえ。怒っている人は、まだわかりやすいですから。そうじゃなくて……笑っているのに、目が動いていないんです」


 僕は彼女の顔を見た。

 斎藤さん自身の笑顔も、どこかぎこちなかった。


 それからさらに一年が過ぎたころ、ニュースが騒ぎ始めた。

 全国の平均幸福度が、ついに「95」を超えたというのだ。


 政府は記者会見を開き、「世界一の幸福国家を目指す」と宣言した。

 街頭インタビューに答える人々は、そろって口をそろえる。

「ええ、幸せですよ。大変なこともありますけど、感謝しています」

 幸福メーターの表示は、誰もが90以上だった。


 僕の数字も、いつの間にか82になっていた。

 とくに何かが変わった実感はなかったが、部署内の「平均値」が上がるにつれて、僕の数字も引っ張られたようだった。


 そして、ついに、その日が来た。


 ある朝、市役所のロビーに設置された大型モニターに、大きな数字が表示された。

「100.0」。

 その下には、こう書かれていた。


 ──全国民の平均幸福度、ついに100達成。


 同時に、僕の腕に巻かれた幸福メーターも、「100」を示していた。

 出勤途中、すれ違う人々の腕をちらりと見ても、やはり同じ数字が並んでいる。


 誰もが「満点」になったのだ。


 その日は臨時の祝日になった。

 政府は「幸福達成記念日」と名付け、各地でイベントやセレモニーが開かれることになっていた。


 だが、街は思ったほどにぎやかではなかった。

 人々は、静かに移動していた。

 笑ってはいるが、声は小さかった。


 昼休み、僕は市役所の屋上に出た。

 風が吹き抜けるが、どこからも音楽も歓声も聞こえない。


 屋上の片隅で、斎藤さんがフェンスにもたれて空を見上げていた。

「おめでとうございます」

 と声をかけると、彼女はゆっくりこちらを向いた。

「何がですか」

「ほら、幸福度100ですよ。目標達成です」

「……そうですね」

 彼女の腕の表示も、確かに100だった。

 だが、顔は疲れ切っていた。


 沈黙を破ったのは、冷たい電子音だった。

 僕の腕の幸福メーターが、小さく振動したのだ。


 画面には、見慣れないメッセージが表示されていた。


 ──アップデート完了。

 ──以後、数値は固定されます。

 ──おめでとうございます。あなたは「恒常的に幸福な状態」です。


 僕は思わず眉をひそめた。

 斎藤さんも同じタイミングで腕を見つめ、ぽつりと言った。

「固定、だそうです」


 つまり、もうこれ以上、数字は変動しないということだ。

 僕たちは、永遠に100のまま。

 それを「幸福」と呼ぶらしい。


 その日を境に、街は急に静かになった。


 それまで頻繁に流れていた「幸福向上キャンペーン」のアナウンスは止み、笑顔体操教室も、ポジティブ投稿をうながす広告も姿を消した。


 人々は相変わらず毎日を過ごしている。

 仕事に行き、帰宅し、買い物をし、子どもを叱り、テレビを見て寝る。

 ただ、そこに「努力して幸福度を上げる」という行為が、まるごと抜け落ちた。


 もう上げる必要がなくなったからだ。

 いつでもどこでも、幸福度は100。

 これ以上、頑張る必要はない。


 SNSには、以前と同じように、笑顔の写真と「今日も幸せ」「最高の一日に感謝」といった文章が流れていた。

 だが、それらに添えられる幸福メーターのスクリーンショットは、どれも見事に同じ数字だった。


 僕のタイムラインを指でスクロールすると、まるで同じ画像がずらりと並んでいるように見えた。

 年月日だけが違う。


 街の雑踏からは、少しずつ笑い声が消えていった。

 笑う必要がないからだ。

 笑っても笑わなくても、数字は変わらない。


 それでも、人々の顔は、どこか笑っているように見えた。

 口角がわずかに上がり、目尻に浅い皺が寄っている。

 幸福メーターのマニュアルには、「一定の表情筋の緊張を維持することで、精神状態の安定が図られる」と書かれていた。

 その結果が、これなのだろう。


 僕はときどき、鏡の中の自分の顔をじっと見つめる。

 やはり、口元が少しだけ上がっていた。

 それが本物の笑顔かどうかは、自分でもよくわからない。


 そんなある日、事件は起きた。


 朝、いつものように出勤し、タイムカードを押して自分の席に座ったときのことだ。

 パソコンを立ち上げようとして、ふと腕に違和感を覚えた。


 幸福メーターの表示が、消えていたのだ。


 液晶は真っ黒で、どこにも100の数字はない。

 僕は少し焦って、バンドを指で叩いたり、ボタンを長押ししたりしてみた。

 すると、ようやく液晶がうっすらと光り、数字がじわじわと浮かび上がってきた。


 それは「0」だった。


 僕は目を疑った。

 もう一度ボタンを押してみる。

 やはり「0」だ。

 数字の横には、小さく赤い警告マークまでついている。


 胸の奥が、ひやりと冷たくなった。

 幸福度ゼロ。

 それがどういう意味を持つのか、想像したくなかった。


 周囲を見回すと、同僚たちの腕の表示は、相変わらず100だった。

 誰も特に変わった様子はない。


 僕はそっと袖を引き下げ、数字が見えないようにした。

 その日一日、仕事はまったく頭に入らなかった。


 昼休み、トイレの個室に駆け込み、もう一度メーターを確認した。

 やはり数字は「0」のままだった。


 何かの故障かもしれない。

 そう思って、幸福メーターのサポートセンターに電話をかけようとしたが、番号がどこにも見当たらなかった。

 制度が始まったころは、パンフレットに大きく載っていたはずなのに、今のマニュアルには、そうした記述が一切ない。


 試しにネットで検索してみたが、「よくある質問」として載っているのは、「数字が100にならないのですが」や「どうすれば上がりますか」といった、過去の名残のような質問ばかりだった。

 「ゼロになったとき」の項目は、どこにもなかった。


 夕方、仕事を早めに切り上げ、僕は家電量販店の修理コーナーに立ち寄った。

 幸福メーターは、最初こそ配布制だったが、その後は新モデルも出て、店頭でも購入できるようになっていたのだ。


 カウンターの中にいた若い店員に、恐る恐る腕を差し出す。

「これ、どうも表示がおかしいみたいで……」

 店員はにこやかにメーターを手に取り、液晶を確認した。

「100じゃないんですね」

 予想外の言葉が返ってきた。


「え?」

「うちに来るお客さん、みんな100なんですよ。ここで初期化すると、だいたい元に戻るんですが……」

 店員はメーターの裏蓋を開け、細いピンを差し込んだ。

 小さなリセット音がして、液晶が一度真っ白になり、また数字が浮かび上がる。

 それでも表示は、やはり「0」のままだった。


 店員の笑顔が、少しひきつった。

「……これは、うちではちょっとどうにもならないですね。製造元に送ることになると思います。ただ、時間がかかるかもしれません」

「どのくらいですか」

「そうですね。目安は……現在未定です」


 つまり、事実上不可能だということらしい。

 僕は礼を言い、メーターを受け取って店を出た。


 帰り道、夕暮れの街を歩きながら、僕はふと、あることを思いついた。


 ──外してみよう。


 幸福メーターには、「常時着用が望ましい」という注意書きはあるが、「外してはいけない」とまでは書かれていない。

 実際、充電のときなどには、みんな腕から外しているはずだ。


 それでも、外して歩く人を、僕はほとんど見たことがなかった。

 腕に何もない状態で街を歩くことは、今やほとんど裸で歩くことに近い。


 僕は立ち止まり、深呼吸をした。

 そして、慎重にバンドの留め金を外した。


 銀色の輪が、あっけないほど簡単に外れる。

 肌に残った薄い跡が、少しひやりとした。


 その瞬間、世界が、わずかに揺れたような気がした。


 夕方の商店街。

 スーパーの前には買い物客が行き交い、コンビニの前では学生たちがスマホをいじっている。

 信号待ちのサラリーマンたちが、無意識に腕をさすり、そこに巻かれた幸福メーターをちらりと見ている。


 ……さっきまでと、何も変わらないように思えた。

 だが、よく目を凝らしてみると、なにかがおかしい。


 さっきまでは、街が「少し静かになった」程度に感じていた。

 今は、その静けさが、骨に響いてくるようだった。


 人々は、口元だけ笑っている。

 けれど、その笑みは紙に貼りつけたようで、目はどこにも向けられていなかった。

 焦点が合っていないのだ。


 スーパーのレジで働く女性は、来る客ごとに同じトーンで言う。

「いつもありがとうございます。よい一日を」

 その言葉は、録音された音声のように一定で、抑揚がまったくない。

 それでいて、口角だけはきちんと上がっている。


 コンビニの前でたむろしている学生たちも、同じだ。

 スマホの画面に映る自分たちの顔を見て、笑っている。

 だが、その笑い声はほとんど聞こえない。喉の奥で小さく震えるだけだ。


 交差点では、信号待ちの人々が一斉にスマホを掲げている。

 画面には、同じような文章が並んでいるのが遠目にもわかる。

「今日も幸せです」「毎日に感謝」「最高の一日でした」。

 指先は機械的に動いているが、その顔はどれも、驚くほど無表情だった。


 いや、もはや「無表情」という言葉すら、追いつかない。

 感情というものが、顔からまるごと消えてしまったように見える。

 筋肉だけが、命令どおりに決まった形に収縮している。


 僕は、ぞっとして立ちすくんだ。

 幸福メーターを外して見た世界は、「笑っていた世界」と、かくも違っていたのか。


 試しに、ポケットの中でメーターを握りしめてみる。

 液晶のわずかな光が手のひらを照らし、「0」の数字が浮かび上がる。

 僕だけが、ゼロ。

 だから、この風景が見えているのだろうか。


 会社帰りの男性が、突然立ち止まり、深く息を吐いた。

 腕に巻かれたメーターが、わずかに光る。

 彼はすぐに周囲をうかがい、口元を引き上げてスマホを掲げた。

 画面には、にこやかな絵文字とともに、「昇進しました! 支えてくれた家族に感謝」と表示されている。

 実際の彼の目は、笑っていなかった。


 路地裏では、中年の女性が壁にもたれて座り込んでいた。

 顔色は青白く、肩で息をしている。

 腕のメーターは、百を示したまま、微動だにしない。

 彼女は震える手でスマホを取り出し、「今日も元気です」と打ち込んでいた。


 通り過ぎる人々は、誰もそれに気づかないふりをしていた。

 気づいたとき、幸福度が下がるのかもしれない。

 気づかないことこそが、今のこの街では「正しい態度」なのだろう。


 僕は、自分の足音だけがやけに大きく聞こえるような気がした。

 他の人々の足音は、まるで消えてしまったようだ。

 それでも、彼らは確かに歩いている。

 ただ、そこに「重さ」がないのだ。


 ふと、ショーウィンドウに映る自分の顔が目に入った。

 そこにいるのは、口元をわずかに上げた男だった。

 今の僕は、恐怖でいっぱいのはずなのに、その顔には何の感情も浮かんでいない。


 慌てて頬に触れてみる。

 指先に触れた筋肉は、硬くこわばっていた。

 どうやら僕の顔も、長年の「訓練」の結果、無意識のうちに「笑う形」に固定されてしまっているらしい。


 幸福メーターがゼロになっても、顔は勝手に笑っている。

 それが、滑稽で、そしてひどく悲しかった。


 そのとき、背後から声がした。

「佐伯さん?」


 振り向くと、斎藤さんが立っていた。

 市役所からそう遠くない場所だ。

 彼女も、買い物の帰りなのか、エコバッグを提げている。


「こんなところで、どうしたんですか」

「いえ、ちょっと……散歩です」

 僕はとっさに、腕を背中に隠した。

 だが斎藤さんは、じっと僕のポケットのあたりを見つめた。


「外してるんですね」

 静かな声だった。


 僕は観念して、幸福メーターを取り出した。

 液晶には、相変わらず「0」が表示されている。


「故障したみたいで」

「故障、ですか」

 斎藤さんは、自分の腕を見下ろした。

 そこには当然のように「100」が浮かんでいる。

「それ、直さないんですか」

「直そうとしたんですが、できませんでした。製造元に送るしかないって言われて……」


 斎藤さんは、しばらく黙っていた。

 やがて、ぽつりと言った。

「ゼロ、かぁ」

「怖いですよね」

「そうですか?」


 意外な返事だった。

 斎藤さんは、表情を変えないまま続けた。


「わたし、最近ずっと、数字を見ていないんです」

「え?」

「もう固定されちゃいましたから。見る意味、ないでしょう」

 彼女は腕をさすりながら言った。

「だから、もしかしたら、わたしのも本当はゼロかもしれません」


 冗談とも本気ともつかないその言葉に、僕は返事に困った。

 斎藤さんはふと、周囲をぐるりと見渡し、小さくため息をついた。


「静かになりましたね」

「そうですね」

「みんな満点なのに」

「ええ。静かです」


 風が吹き、どこかで旗がはためく音がした。

 それ以外の音は、ほとんどなかった。


「佐伯さん」

 斎藤さんは、少しだけ声を潜めた。

「外してみて、何か見えましたか」

 僕は迷った。

 正直に答えるべきかどうか。


 けれど、結局、嘘はつけなかった。

「……みんな、笑ってませんでした」

「そうですか」

 斎藤さんは、目を細めた。

「やっぱり、そうなんですね」


 その言い方が気になって、僕は聞き返した。

「『やっぱり』?」

「わたしはまだ、外したことがないです。でも、なんとなく、そうなんじゃないかと思っていました」


 斎藤さんは、エコバッグの持ち手を握り直した。

「ねえ、佐伯さん」

「はい」

「外しているところ、誰かに見られたら、どうなると思います?」

「……どう、でしょうね」


 考えたこともなかった。

 幸福メーターの着用は義務ではない。

 だが、「外すこと」そのものが、暗黙のうちにタブーになっているのは確かだ。


「たぶん、『不安定な人』ってことになるんでしょうね」

 斎藤さんは、淡々と言った。

「支援の優先順位は、きっと下がります。職場でも、評価に響きます。友だちも、距離を置くかもしれません」


 それは、想像すると容易に理解できる現実だった。

 幸福度ゼロの人間と付き合うのは、リスクだ。

 周囲の幸福度に影響するかもしれない。


 斎藤さんは、ふっと笑った。

 その笑顔は、さっき街で見た誰の笑顔とも違っていた。

 どこか、困ったような、あきらめたような表情だった。


「だから、気をつけたほうがいいですよ」

「……はい」

「わたし、何も見なかったことにしますから」


 そう言って、彼女は踵を返した。

 その背中を見送りながら、僕は、自分の手の中の小さな装置を見下ろした。


 0。

 たった一桁の数字が、こんなにも重い。


 その夜、布団の中で、僕は幸福メーターを枕元に置いた。

 腕にはめようとすると、皮膚が拒否するようにムズムズする。

 僕は、バンドを握りしめたまま、目を閉じた。


 翌朝、目を覚ますと、部屋の中は異様なほど静かだった。

 窓の外から聞こえてくるはずの通勤の足音や、子どもの声が、ほとんど聞こえない。


 恐る恐るカーテンを開けると、通りには確かに人が歩いていた。

 だが、その歩き方は、夢遊病者のようにゆっくりで、表情は石のように硬い。

 腕には、銀色のバンドがしっかり巻かれている。


 学校へ向かう子どもたちは、列を成して歩いている。

 先生が先頭で、「今日も幸福度100でがんばりましょう」と言っている。

 子どもたちは一斉に「はい」と答えるが、その声は妙に薄かった。


 テレビをつけると、ニュースキャスターがいつもの笑顔で話していた。

「本日も、全国平均幸福度は安定の100を維持しています」

 スタジオの観覧席から、薄い拍手が起こる。

 画面の端には、幸福メーターのロゴが小さく表示されていた。


 僕は、腕に何も巻かないまま、出勤した。

 通勤電車の中で、周りの視線を感じた。

 袖口から銀色のバンドが見えないことに、みんな気づいているのだろう。

 だが、誰も何も言わない。

 代わりに、少しだけ距離を取って立っている。


 市役所に着くと、入り口のゲートでセンサーが鳴った。

 いつの間にか、幸福メーターの有無をチェックする機能が追加されていたらしい。

 警備員が近づいてきて、穏やかな笑顔で言った。


「おはようございます。腕輪のスキャンをお願いします」

「……すみません。故障してしまって」

 僕はポケットからメーターを取り出し、ゲートにかざした。

 センサーが一瞬光り、やがて緑色に変わる。


「ゼロですね」

 警備員は、笑顔のまま言った。

「故障の可能性がありますので、後日、幸福状態確認センターから連絡が入るかと思います。それまでは、通常どおりお過ごしください」

 口調は丁寧だったが、どこか、人ごとだった。


 僕はうなずき、ゲートを通り抜けた。

 オフィスに入ると、同僚たちは一瞬だけこちらを見たが、すぐに視線をそらした。


 その日、僕の机の上に、一枚の封筒が置かれていた。

 差出人の欄には、「中央幸福状態確認センター」と印刷されている。


 中に入っていたのは、簡単な通知文だった。


 ──あなたの幸福度に異常値が検知されました。

 ──面談のうえ、必要な支援を行います。

 ──下記日時に、指定の窓口までお越しください。


 日時は、今日の午後だった。

 早い話だ。


 課長は、通知文をちらりと見て言った。

「おお、さすが中央は仕事が早いね。大丈夫、あそこは『改善指導』だから。うちの職員も何人か行ったけど、みんな戻ってきたよ。みんな、今は100だ」

 それは、安心するべき言葉なのか、判断できなかった。


 午後、指示された部屋に行くと、そこは市役所の一角に新設された「相談室」だった。

 中には、白い壁と、テーブルと、二脚の椅子だけがある。

 窓はなく、天井から柔らかい光が降りている。


 しばらくすると、ドアが開き、スーツを着た男女が入ってきた。

 にこやかな笑顔を浮かべているが、その目はよく訓練されたカウンセラーのように無機質だった。


「佐伯さんですね。お時間をいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ」

「わたしたちは、中央幸福状態確認センターの者です。今日は、佐伯さんの『幸福状態』について、少しお話をうかがおうと思います」


 女のほうが、タブレット端末を手にしていた。

 彼女はそこに映るデータをちらりと見て、続けた。

「幸福メーターのログによりますと、昨日の夕方以降、急激に数値が低下し、現在はゼロのまま固定されています。何か、心当たりはありますか」


 僕は少し迷ったが、正直に答えた。

「外して、街を歩きました」

 二人は顔を見合わせた。

 男のほうが、少しだけ笑みを深くした。


「なるほど。それは、興味深いですね」

「興味深い、ですか」

「ええ。最近、ときどきそういう方が出てきています。『外したときに見えるもの』に、戸惑う方が多いようで」


 女のほうが、タブレットを操作しながら言った。

「佐伯さんは、外してみて、何を感じましたか」

 僕は、昨日見た光景をできるだけ正確に伝えた。

 無表情の笑顔、薄い声、無音に近い街。

 そして、自分の顔も、筋肉だけが笑っているように見えたこと。


 二人は、真剣にうなずきながら聞いていた。

 やがて、男がこう言った。


「それは、ごく自然な反応です」

「自然、ですか」

「はい。わたしたちも、似たようなものを見ますから」


 意外な言葉だった。

「あなたがたも、外すんですか」

「仕事ですからね」

 男は肩をすくめた。

「ただ、その上でひとつ、お伝えしなければならないことがあります」


「なんでしょう」

「幸福メーターは、すでに『制度』です。支援の配分、治安の維持、経済活動の安定――いろいろなものが、この数字を前提として組み立てられています。つまり、数字がゼロの人がいるという事実は、制度そのものにとって、あまり望ましくないのです」


 女が、タブレットに何かを書き込みながら言った。

「さきほど、あなたは『街が無表情だった』とおっしゃいましたね。でも、多くの人にとっては、幸福メーターをつけている限り、そのようには見えません。見えないほうが、生活はずっと安定するのです」


 男が、穏やかな声で続けた。

「ですから、わたしたちの仕事は、ゼロになった方に、もう一度『100の世界』に戻っていただくことなんです」


 つまり、僕を「元に戻す」ということらしい。

 僕は、思わず聞き返した。


「戻る、とは?」

「簡単です」

 女が、引き出しから小さなケースを取り出した。

 中には、見慣れた銀色のバンドが入っている。

「これは、新しい型の幸福メーターです。特別モデルで、通常のものより少しだけ、感度が高い。これをつけて、少しのあいだ、こちらの指示どおりに生活していただきます。ポジティブな番組を見る、感謝日記をつける、笑顔体操に参加する。そうしているうちに、数字は自然と戻っていきます」


「もし、つけなかったら?」

 二人は、同時に笑顔を深くした。


「もちろん、強制ではありません」

 男が言った。

「ただ、その場合、支援の対象からは外れます。住宅ローンの優遇措置、医療費助成、子育て支援……そういったものは、すべて『安定した幸福状態』を前提としていますから」


 女が、淡々と付け加えた。

「それから、職場にも通知が行きます。『幸福状態に不安定要素がある職員がいる』という形で。今後の人事評価で、多少考慮されるかもしれません」


 つまり、僕には選択肢が二つある。

 ひとつは、新しい幸福メーターを受け取り、もう一度「100の世界」に戻ること。

 もうひとつは、ゼロのまま生きること。

 その代わり、あらゆる支援と評価を失うこと。


 男は、ケースをテーブルの上に置いた。

「さあ、どちらになさいますか」


 部屋は静まり返っていた。

 天井の照明が、白く均等な光を降り注いでいる。

 外からの音は、一切聞こえない。


 僕は、自分のポケットから、古い幸福メーターを取り出した。

 液晶には、相変わらず「0」が表示されている。

 その数字を、しばらく見つめた。


 ゼロ。

 何も持っていない。

 何も保証されていない。

 けれど、少なくとも昨日、僕は「笑っていない街」を見ることができた。


 テーブルの上の新しいメーターは、まだ数字を持っていない。

 けれど、つけた瞬間、きっとまた「100」を表示するだろう。

 そして僕は、再び「何も見えない世界」に戻っていく。


 男と女の視線が、僕に注がれている。

 どちらも笑顔だ。

 その笑顔の裏側に、どんな表情が隠れているのか、僕には想像できなかった。


 やがて、僕は口を開いた。


「……少し、考えさせてください」

 二人は顔を見合わせ、うなずいた。


「もちろん。これは、とても大事な選択ですから」

 女が言った。

「ただ、あまり時間はありません。ゼロの状態が長く続くと、周囲への影響も出ますので」

 男が付け加える。

「一週間後までに、お返事をください。それまでは、今のままで結構です」


 面談室を出ると、廊下には誰もいなかった。

 窓はなく、空気は少し乾いていた。

 僕は自分の古い幸福メーターを握りしめたまま、ゆっくりと外に出た。


 夕方の街は、やはり静かだった。

 人々は相変わらず、薄く笑いながら歩いている。

 腕のメーターは、どれも一様に100だ。


 信号待ちの列の中で、ひとりの少年が、じっと自分の腕を見つめていた。

 彼の顔には、かすかな迷いが浮かんでいる。

 やがて彼は、そっとバンドに指をかけた。

 しかし、その指は途中で止まり、まるで何かに阻まれたように離れてしまった。


 すぐそばで、その様子を見ていた母親が、優しく言った。

「外しちゃだめよ。せっかく100なんだから」

 少年は小さくうなずいた。

 表情は、すぐに何も映さない面のようになった。


 僕はふと、自分の腕を見た。

 そこには何もない。

 空っぽの手首が、夕焼けの光を浴びていた。


 しばらく立ち尽くしたあと、僕は、ゆっくりとポケットの中から古い幸福メーターを取り出した。

 手のひらの上で、液晶がかすかに光る。

 数字は、変わらず「0」だ。


 僕は、それをしばらく見つめてから、近くのゴミ箱の前に立った。

 手を持ち上げる。

 指先が、迷う。


 ゴミ箱のふたは開いている。

 中には、紙くずや空き缶が詰まっている。

 そこに、これを放り込めば、ゼロの世界とはお別れだ。

 あとは、新しいメーターを受け取り、もう一度「幸福」に戻ればいい。


 耳の奥で、あの静寂が響いていた。

 笑っているようで、笑っていない街。

 口元だけが上がり、目がどこにも向いていない人々。

 その光景は、決して心地よいものではなかった。


 だが、何も知らないまま、100の数字に安心して暮らしているほうが、幸福なのかもしれない。

 その「幸福」が、本物かどうかは別として。


 僕は、ゴミ箱のふちに手をかけた。

 幸福メーターが、かすかに震えるように見えた。

 液晶の数字が、ほんの少し、揺らいだ気がした。


 0。

 その右側に、かすかに小さな点が灯った。

 0.1。


 気のせいかもしれない。

 それでも、僕にはそう見えた。


 僕は、ゴミ箱のふたをそっと閉めた。

 そして、幸福メーターをポケットに戻した。


 街は、相変わらず静かだった。

 人々は、100の数字を腕に巻いたまま、無表情に笑っている。

 誰も怒らず、誰も泣かず、誰も叫ばない。


 ただ一人、ゼロの数字をポケットに入れたまま、僕はその中を歩いていった。


 どちらが幸福なのか。

 それを決めるメーターは、もう腕にはない。


 代わりに決めるのは、きっと、そのうち他の誰かだろう。

 新しい制度の名前は、まだ発表されていない。


 僕は、少しだけ口元をゆるめた。

 ショーウィンドウに映った自分の顔は、やはり相変わらず、よくわからない表情をしていた。


 幸福メーターが示す世界と、何も示さない世界。

 そのあいだの、どこか曖昧な場所を歩きながら、僕は家路についた。

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