幸福メーターの針が止まった日
幸福メーターが配られたのは、三年前の春だった。
桜が咲ききる前に散ってしまった年のことで、テレビもネットも、その話題で持ちきりだった。
腕時計より少し細いくらいの銀色のバンドだ。内側には柔らかい樹脂が貼られていて、肌に密着するようになっている。
これを利き手とは逆の手首に巻くと、内蔵されたセンサーが脈拍や発汗、表情筋の動き、音声の抑揚、さらには位置情報や購入履歴、SNSの投稿内容などに総合点をつけて、その人の「幸福度」を0から100までの数字で表示する。
名前は、そのまんま「幸福メーター」。
開発したのは、国の外郭団体だとか、民間企業だとか、いろいろ言われていたが、詳細ははっきりしなかった。ただ一つ確かなのは、政府がこれを非常に気に入ったということだ。
僕はそのころ、市役所の「市民福祉部・幸福推進課」に配属されたばかりだった。
部署の名前を初めて見たとき、冗談だと思ったのをよく覚えている。
課長は真面目な顔で言った。
「これからは、福祉より幸福だ。数字にできなければ、予算もつけにくい」
冗談に聞こえたが、どうやら本気だった。
幸福メーターは、最初から義務ではなかった。
希望者に無料配布し、つけてくれる人がどのくらいいるのかを見る「社会実験」だという説明だった。それでいて、ニュース番組に出演した専門家たちは、一様にこう言った。
「画期的な取り組みです。幸福を科学し、可視化することで、よりよい社会づくりに生かせるでしょう」
実際、申し込みは殺到した。
健康診断の延長のような感覚だったのかもしれない。自分の幸福度が数字でわかると聞けば、つい試してみたくなるのが人間というものだ。
僕も興味本位で申し込んだ。
配布会場で受け取った銀色のバンドは、見るからに高価そうだった。職員用の簡易マニュアルには、こう書かれている。
──着用中の幸福度は、随時クラウドに送信されます。
──個人を特定できる形では公表されません。
──幸福度が一定以上高い場合、行政からの支援メニューが増えます。
最後の一文を見たとき、僕は眉をひそめた。
「支援メニューが増えるって、なんですか」
隣の席の先輩に聞くと、彼は笑いながら言った。
「まぁ、クーポンとか、優先枠とか、そういうやつだよ。予算の取りやすい施策を考えないと、こっちも生きていけないだろ」
僕は、なんとなく嫌な予感がした。
それでも「社会実験」なのだから、少ししたら終わるだろうと思っていた。
僕が初めて幸福メーターを腕に巻いた日、表示された数字は「43」だった。
高いのか低いのかもわからなかったが、少なくとも誇れる値ではなさそうだった。
隣の席の先輩は得意げに腕を見せてきた。
「見ろよ、68だ。まあまあだろ」
「何が違うんでしょうね」
「恋人いるかどうかじゃないか」
先輩は笑ったが、その笑いが本気かどうかはわからなかった。
やがて、幸福メーターの数字はテレビ番組やニュースサイトで「話題」として取り上げられ、SNSには「今のわたしの幸福度」というスクリーンショットが溢れた。
そのうち、政府はひっそりと、一つの方針を発表した。
──一定以上の幸福度を継続している世帯に対し、子育て支援や住宅支援、医療費助成などを優先的に行う。
──具体的な支援内容は自治体ごとに決定する。
当然、市役所にもお達しが来た。
課長はホワイトボードに大きく「幸福度70以上」と書き、こう言った。
「とりあえず、ここがラインだ。70以上を三か月維持した世帯には、支援メニューを拡充する。市としても『幸福都市』としてアピールできる」
僕は内心でため息をついた。
僕の幸福度は、まだ40台後半をうろうろしていた。
制度が始まると、市民からの問い合わせが殺到した。
「どうすれば幸福度を上げられるのか」
「うちは子どもが三人もいるのに、六十五から上がらない。おかしいじゃないか」
「隣の奥さんはいつも笑っているのに、うちは無表情だから損をしているのではないか」
幸福推進課の窓口は、いつも人でいっぱいになった。
僕たちが手渡すのは、簡単なパンフレットだ。
──よく眠りましょう
──よく笑いましょう
──感謝の言葉を口に出しましょう
──前向きな言葉をSNSに投稿しましょう
どこにでもある「ポジティブ思考」の勧めだ。
しかし、ここではそれが、支援の条件になっている。
パンフレットを受け取った人の多くは、渋い顔をした。
それでも、やがて街には変化が現れ始めた。
人々はよく笑うようになった。
少なくとも、「笑っている顔」を見せるようになった。
通勤電車の中で、向かいの席の会社員たちは、同じような角度でスマホを掲げ、自撮りをしている。
「今日も幸せです」「家族に感謝」「仕事があるだけでありがたい」。
そんな文章とともに、幸福メーターのスクリーンショットを添えて投稿し、そこに#幸福70#目指せ80といったハッシュタグをつける。
僕のタイムラインは、いつの間にか似たような笑顔で埋め尽くされていた。
それなのに、幸福メーターの表示は、なかなか70には届かなかった。
ある日、帰り道で、アパートの前の公園を通りかかった。
ブランコに座っている女の子が、しきりに腕のバンドをたたいていた。
「なんでよ。なんで上がらないのよ」
隣で母親が、作り笑いのような顔でスマホを構えている。
「ほら、もっと笑って。『今日も楽しい公園遊び』って書くのよ」
少女は泣き出しそうな顔で、無理やり口角を上げた。
その光景を見て、僕の幸福度の数字は、一瞬だけぐんと下がり、そのあとすぐに元に戻った。
幸福メーターは正直なのか、不正直なのか。
僕には判別がつかなかった。
そんな日々が一年ほど続いたころ、政府は第二段階の方針を発表した。
──平均幸福度を80に引き上げる。
──達成できない自治体には、交付金を削減する。
課長は会議室で頭を抱えた。
「目標値というのは、どうしていつも上のほうにしかないんだろうね」
僕たち若手職員は苦笑するしかなかった。
そのころから、幸福メーターには「アップデート」が頻繁に配信されるようになった。
新しいアルゴリズムが導入され、「ポジティブな投稿」や「近所づきあいの良さ」が、より高く評価されるらしい。
街には「幸福サークル」や「笑顔体操教室」が次々に開設された。
みんなで集まって感謝を言い合い、褒めあい、写真を撮ってSNSに上げる。
幸福メーターも連動していて、その場で数字が上がると、参加者はほっとした顔をした。
僕の隣の席には、新しく配属された女性職員が座った。
斎藤さんという、少し猫背で、目元にクマのあるひとだ。
「前はどこの部署だったんですか」
と聞くと、彼女は淡々と答えた。
「生活保護担当です。仕事が減ってきたので、こちらに回されました」
「減ってきた?」
「ええ。幸福度の高い人には、いろんな支援が行くようになりましたから。申請に来る人が減ったんです」
そう言う彼女の幸福度は、袖口からのぞく小さな表示によれば「78」だった。
僕よりずっと高い。
ある日、斎藤さんはぼそりと言った。
「最近、窓口に来る人の顔が、前より怖いです」
「怖いって、怒っているとか?」
「いえ。怒っている人は、まだわかりやすいですから。そうじゃなくて……笑っているのに、目が動いていないんです」
僕は彼女の顔を見た。
斎藤さん自身の笑顔も、どこかぎこちなかった。
それからさらに一年が過ぎたころ、ニュースが騒ぎ始めた。
全国の平均幸福度が、ついに「95」を超えたというのだ。
政府は記者会見を開き、「世界一の幸福国家を目指す」と宣言した。
街頭インタビューに答える人々は、そろって口をそろえる。
「ええ、幸せですよ。大変なこともありますけど、感謝しています」
幸福メーターの表示は、誰もが90以上だった。
僕の数字も、いつの間にか82になっていた。
とくに何かが変わった実感はなかったが、部署内の「平均値」が上がるにつれて、僕の数字も引っ張られたようだった。
そして、ついに、その日が来た。
ある朝、市役所のロビーに設置された大型モニターに、大きな数字が表示された。
「100.0」。
その下には、こう書かれていた。
──全国民の平均幸福度、ついに100達成。
同時に、僕の腕に巻かれた幸福メーターも、「100」を示していた。
出勤途中、すれ違う人々の腕をちらりと見ても、やはり同じ数字が並んでいる。
誰もが「満点」になったのだ。
その日は臨時の祝日になった。
政府は「幸福達成記念日」と名付け、各地でイベントやセレモニーが開かれることになっていた。
だが、街は思ったほどにぎやかではなかった。
人々は、静かに移動していた。
笑ってはいるが、声は小さかった。
昼休み、僕は市役所の屋上に出た。
風が吹き抜けるが、どこからも音楽も歓声も聞こえない。
屋上の片隅で、斎藤さんがフェンスにもたれて空を見上げていた。
「おめでとうございます」
と声をかけると、彼女はゆっくりこちらを向いた。
「何がですか」
「ほら、幸福度100ですよ。目標達成です」
「……そうですね」
彼女の腕の表示も、確かに100だった。
だが、顔は疲れ切っていた。
沈黙を破ったのは、冷たい電子音だった。
僕の腕の幸福メーターが、小さく振動したのだ。
画面には、見慣れないメッセージが表示されていた。
──アップデート完了。
──以後、数値は固定されます。
──おめでとうございます。あなたは「恒常的に幸福な状態」です。
僕は思わず眉をひそめた。
斎藤さんも同じタイミングで腕を見つめ、ぽつりと言った。
「固定、だそうです」
つまり、もうこれ以上、数字は変動しないということだ。
僕たちは、永遠に100のまま。
それを「幸福」と呼ぶらしい。
その日を境に、街は急に静かになった。
それまで頻繁に流れていた「幸福向上キャンペーン」のアナウンスは止み、笑顔体操教室も、ポジティブ投稿をうながす広告も姿を消した。
人々は相変わらず毎日を過ごしている。
仕事に行き、帰宅し、買い物をし、子どもを叱り、テレビを見て寝る。
ただ、そこに「努力して幸福度を上げる」という行為が、まるごと抜け落ちた。
もう上げる必要がなくなったからだ。
いつでもどこでも、幸福度は100。
これ以上、頑張る必要はない。
SNSには、以前と同じように、笑顔の写真と「今日も幸せ」「最高の一日に感謝」といった文章が流れていた。
だが、それらに添えられる幸福メーターのスクリーンショットは、どれも見事に同じ数字だった。
僕のタイムラインを指でスクロールすると、まるで同じ画像がずらりと並んでいるように見えた。
年月日だけが違う。
街の雑踏からは、少しずつ笑い声が消えていった。
笑う必要がないからだ。
笑っても笑わなくても、数字は変わらない。
それでも、人々の顔は、どこか笑っているように見えた。
口角がわずかに上がり、目尻に浅い皺が寄っている。
幸福メーターのマニュアルには、「一定の表情筋の緊張を維持することで、精神状態の安定が図られる」と書かれていた。
その結果が、これなのだろう。
僕はときどき、鏡の中の自分の顔をじっと見つめる。
やはり、口元が少しだけ上がっていた。
それが本物の笑顔かどうかは、自分でもよくわからない。
そんなある日、事件は起きた。
朝、いつものように出勤し、タイムカードを押して自分の席に座ったときのことだ。
パソコンを立ち上げようとして、ふと腕に違和感を覚えた。
幸福メーターの表示が、消えていたのだ。
液晶は真っ黒で、どこにも100の数字はない。
僕は少し焦って、バンドを指で叩いたり、ボタンを長押ししたりしてみた。
すると、ようやく液晶がうっすらと光り、数字がじわじわと浮かび上がってきた。
それは「0」だった。
僕は目を疑った。
もう一度ボタンを押してみる。
やはり「0」だ。
数字の横には、小さく赤い警告マークまでついている。
胸の奥が、ひやりと冷たくなった。
幸福度ゼロ。
それがどういう意味を持つのか、想像したくなかった。
周囲を見回すと、同僚たちの腕の表示は、相変わらず100だった。
誰も特に変わった様子はない。
僕はそっと袖を引き下げ、数字が見えないようにした。
その日一日、仕事はまったく頭に入らなかった。
昼休み、トイレの個室に駆け込み、もう一度メーターを確認した。
やはり数字は「0」のままだった。
何かの故障かもしれない。
そう思って、幸福メーターのサポートセンターに電話をかけようとしたが、番号がどこにも見当たらなかった。
制度が始まったころは、パンフレットに大きく載っていたはずなのに、今のマニュアルには、そうした記述が一切ない。
試しにネットで検索してみたが、「よくある質問」として載っているのは、「数字が100にならないのですが」や「どうすれば上がりますか」といった、過去の名残のような質問ばかりだった。
「ゼロになったとき」の項目は、どこにもなかった。
夕方、仕事を早めに切り上げ、僕は家電量販店の修理コーナーに立ち寄った。
幸福メーターは、最初こそ配布制だったが、その後は新モデルも出て、店頭でも購入できるようになっていたのだ。
カウンターの中にいた若い店員に、恐る恐る腕を差し出す。
「これ、どうも表示がおかしいみたいで……」
店員はにこやかにメーターを手に取り、液晶を確認した。
「100じゃないんですね」
予想外の言葉が返ってきた。
「え?」
「うちに来るお客さん、みんな100なんですよ。ここで初期化すると、だいたい元に戻るんですが……」
店員はメーターの裏蓋を開け、細いピンを差し込んだ。
小さなリセット音がして、液晶が一度真っ白になり、また数字が浮かび上がる。
それでも表示は、やはり「0」のままだった。
店員の笑顔が、少しひきつった。
「……これは、うちではちょっとどうにもならないですね。製造元に送ることになると思います。ただ、時間がかかるかもしれません」
「どのくらいですか」
「そうですね。目安は……現在未定です」
つまり、事実上不可能だということらしい。
僕は礼を言い、メーターを受け取って店を出た。
帰り道、夕暮れの街を歩きながら、僕はふと、あることを思いついた。
──外してみよう。
幸福メーターには、「常時着用が望ましい」という注意書きはあるが、「外してはいけない」とまでは書かれていない。
実際、充電のときなどには、みんな腕から外しているはずだ。
それでも、外して歩く人を、僕はほとんど見たことがなかった。
腕に何もない状態で街を歩くことは、今やほとんど裸で歩くことに近い。
僕は立ち止まり、深呼吸をした。
そして、慎重にバンドの留め金を外した。
銀色の輪が、あっけないほど簡単に外れる。
肌に残った薄い跡が、少しひやりとした。
その瞬間、世界が、わずかに揺れたような気がした。
夕方の商店街。
スーパーの前には買い物客が行き交い、コンビニの前では学生たちがスマホをいじっている。
信号待ちのサラリーマンたちが、無意識に腕をさすり、そこに巻かれた幸福メーターをちらりと見ている。
……さっきまでと、何も変わらないように思えた。
だが、よく目を凝らしてみると、なにかがおかしい。
さっきまでは、街が「少し静かになった」程度に感じていた。
今は、その静けさが、骨に響いてくるようだった。
人々は、口元だけ笑っている。
けれど、その笑みは紙に貼りつけたようで、目はどこにも向けられていなかった。
焦点が合っていないのだ。
スーパーのレジで働く女性は、来る客ごとに同じトーンで言う。
「いつもありがとうございます。よい一日を」
その言葉は、録音された音声のように一定で、抑揚がまったくない。
それでいて、口角だけはきちんと上がっている。
コンビニの前でたむろしている学生たちも、同じだ。
スマホの画面に映る自分たちの顔を見て、笑っている。
だが、その笑い声はほとんど聞こえない。喉の奥で小さく震えるだけだ。
交差点では、信号待ちの人々が一斉にスマホを掲げている。
画面には、同じような文章が並んでいるのが遠目にもわかる。
「今日も幸せです」「毎日に感謝」「最高の一日でした」。
指先は機械的に動いているが、その顔はどれも、驚くほど無表情だった。
いや、もはや「無表情」という言葉すら、追いつかない。
感情というものが、顔からまるごと消えてしまったように見える。
筋肉だけが、命令どおりに決まった形に収縮している。
僕は、ぞっとして立ちすくんだ。
幸福メーターを外して見た世界は、「笑っていた世界」と、かくも違っていたのか。
試しに、ポケットの中でメーターを握りしめてみる。
液晶のわずかな光が手のひらを照らし、「0」の数字が浮かび上がる。
僕だけが、ゼロ。
だから、この風景が見えているのだろうか。
会社帰りの男性が、突然立ち止まり、深く息を吐いた。
腕に巻かれたメーターが、わずかに光る。
彼はすぐに周囲をうかがい、口元を引き上げてスマホを掲げた。
画面には、にこやかな絵文字とともに、「昇進しました! 支えてくれた家族に感謝」と表示されている。
実際の彼の目は、笑っていなかった。
路地裏では、中年の女性が壁にもたれて座り込んでいた。
顔色は青白く、肩で息をしている。
腕のメーターは、百を示したまま、微動だにしない。
彼女は震える手でスマホを取り出し、「今日も元気です」と打ち込んでいた。
通り過ぎる人々は、誰もそれに気づかないふりをしていた。
気づいたとき、幸福度が下がるのかもしれない。
気づかないことこそが、今のこの街では「正しい態度」なのだろう。
僕は、自分の足音だけがやけに大きく聞こえるような気がした。
他の人々の足音は、まるで消えてしまったようだ。
それでも、彼らは確かに歩いている。
ただ、そこに「重さ」がないのだ。
ふと、ショーウィンドウに映る自分の顔が目に入った。
そこにいるのは、口元をわずかに上げた男だった。
今の僕は、恐怖でいっぱいのはずなのに、その顔には何の感情も浮かんでいない。
慌てて頬に触れてみる。
指先に触れた筋肉は、硬くこわばっていた。
どうやら僕の顔も、長年の「訓練」の結果、無意識のうちに「笑う形」に固定されてしまっているらしい。
幸福メーターがゼロになっても、顔は勝手に笑っている。
それが、滑稽で、そしてひどく悲しかった。
そのとき、背後から声がした。
「佐伯さん?」
振り向くと、斎藤さんが立っていた。
市役所からそう遠くない場所だ。
彼女も、買い物の帰りなのか、エコバッグを提げている。
「こんなところで、どうしたんですか」
「いえ、ちょっと……散歩です」
僕はとっさに、腕を背中に隠した。
だが斎藤さんは、じっと僕のポケットのあたりを見つめた。
「外してるんですね」
静かな声だった。
僕は観念して、幸福メーターを取り出した。
液晶には、相変わらず「0」が表示されている。
「故障したみたいで」
「故障、ですか」
斎藤さんは、自分の腕を見下ろした。
そこには当然のように「100」が浮かんでいる。
「それ、直さないんですか」
「直そうとしたんですが、できませんでした。製造元に送るしかないって言われて……」
斎藤さんは、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「ゼロ、かぁ」
「怖いですよね」
「そうですか?」
意外な返事だった。
斎藤さんは、表情を変えないまま続けた。
「わたし、最近ずっと、数字を見ていないんです」
「え?」
「もう固定されちゃいましたから。見る意味、ないでしょう」
彼女は腕をさすりながら言った。
「だから、もしかしたら、わたしのも本当はゼロかもしれません」
冗談とも本気ともつかないその言葉に、僕は返事に困った。
斎藤さんはふと、周囲をぐるりと見渡し、小さくため息をついた。
「静かになりましたね」
「そうですね」
「みんな満点なのに」
「ええ。静かです」
風が吹き、どこかで旗がはためく音がした。
それ以外の音は、ほとんどなかった。
「佐伯さん」
斎藤さんは、少しだけ声を潜めた。
「外してみて、何か見えましたか」
僕は迷った。
正直に答えるべきかどうか。
けれど、結局、嘘はつけなかった。
「……みんな、笑ってませんでした」
「そうですか」
斎藤さんは、目を細めた。
「やっぱり、そうなんですね」
その言い方が気になって、僕は聞き返した。
「『やっぱり』?」
「わたしはまだ、外したことがないです。でも、なんとなく、そうなんじゃないかと思っていました」
斎藤さんは、エコバッグの持ち手を握り直した。
「ねえ、佐伯さん」
「はい」
「外しているところ、誰かに見られたら、どうなると思います?」
「……どう、でしょうね」
考えたこともなかった。
幸福メーターの着用は義務ではない。
だが、「外すこと」そのものが、暗黙のうちにタブーになっているのは確かだ。
「たぶん、『不安定な人』ってことになるんでしょうね」
斎藤さんは、淡々と言った。
「支援の優先順位は、きっと下がります。職場でも、評価に響きます。友だちも、距離を置くかもしれません」
それは、想像すると容易に理解できる現実だった。
幸福度ゼロの人間と付き合うのは、リスクだ。
周囲の幸福度に影響するかもしれない。
斎藤さんは、ふっと笑った。
その笑顔は、さっき街で見た誰の笑顔とも違っていた。
どこか、困ったような、あきらめたような表情だった。
「だから、気をつけたほうがいいですよ」
「……はい」
「わたし、何も見なかったことにしますから」
そう言って、彼女は踵を返した。
その背中を見送りながら、僕は、自分の手の中の小さな装置を見下ろした。
0。
たった一桁の数字が、こんなにも重い。
その夜、布団の中で、僕は幸福メーターを枕元に置いた。
腕にはめようとすると、皮膚が拒否するようにムズムズする。
僕は、バンドを握りしめたまま、目を閉じた。
翌朝、目を覚ますと、部屋の中は異様なほど静かだった。
窓の外から聞こえてくるはずの通勤の足音や、子どもの声が、ほとんど聞こえない。
恐る恐るカーテンを開けると、通りには確かに人が歩いていた。
だが、その歩き方は、夢遊病者のようにゆっくりで、表情は石のように硬い。
腕には、銀色のバンドがしっかり巻かれている。
学校へ向かう子どもたちは、列を成して歩いている。
先生が先頭で、「今日も幸福度100でがんばりましょう」と言っている。
子どもたちは一斉に「はい」と答えるが、その声は妙に薄かった。
テレビをつけると、ニュースキャスターがいつもの笑顔で話していた。
「本日も、全国平均幸福度は安定の100を維持しています」
スタジオの観覧席から、薄い拍手が起こる。
画面の端には、幸福メーターのロゴが小さく表示されていた。
僕は、腕に何も巻かないまま、出勤した。
通勤電車の中で、周りの視線を感じた。
袖口から銀色のバンドが見えないことに、みんな気づいているのだろう。
だが、誰も何も言わない。
代わりに、少しだけ距離を取って立っている。
市役所に着くと、入り口のゲートでセンサーが鳴った。
いつの間にか、幸福メーターの有無をチェックする機能が追加されていたらしい。
警備員が近づいてきて、穏やかな笑顔で言った。
「おはようございます。腕輪のスキャンをお願いします」
「……すみません。故障してしまって」
僕はポケットからメーターを取り出し、ゲートにかざした。
センサーが一瞬光り、やがて緑色に変わる。
「ゼロですね」
警備員は、笑顔のまま言った。
「故障の可能性がありますので、後日、幸福状態確認センターから連絡が入るかと思います。それまでは、通常どおりお過ごしください」
口調は丁寧だったが、どこか、人ごとだった。
僕はうなずき、ゲートを通り抜けた。
オフィスに入ると、同僚たちは一瞬だけこちらを見たが、すぐに視線をそらした。
その日、僕の机の上に、一枚の封筒が置かれていた。
差出人の欄には、「中央幸福状態確認センター」と印刷されている。
中に入っていたのは、簡単な通知文だった。
──あなたの幸福度に異常値が検知されました。
──面談のうえ、必要な支援を行います。
──下記日時に、指定の窓口までお越しください。
日時は、今日の午後だった。
早い話だ。
課長は、通知文をちらりと見て言った。
「おお、さすが中央は仕事が早いね。大丈夫、あそこは『改善指導』だから。うちの職員も何人か行ったけど、みんな戻ってきたよ。みんな、今は100だ」
それは、安心するべき言葉なのか、判断できなかった。
午後、指示された部屋に行くと、そこは市役所の一角に新設された「相談室」だった。
中には、白い壁と、テーブルと、二脚の椅子だけがある。
窓はなく、天井から柔らかい光が降りている。
しばらくすると、ドアが開き、スーツを着た男女が入ってきた。
にこやかな笑顔を浮かべているが、その目はよく訓練されたカウンセラーのように無機質だった。
「佐伯さんですね。お時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ」
「わたしたちは、中央幸福状態確認センターの者です。今日は、佐伯さんの『幸福状態』について、少しお話をうかがおうと思います」
女のほうが、タブレット端末を手にしていた。
彼女はそこに映るデータをちらりと見て、続けた。
「幸福メーターのログによりますと、昨日の夕方以降、急激に数値が低下し、現在はゼロのまま固定されています。何か、心当たりはありますか」
僕は少し迷ったが、正直に答えた。
「外して、街を歩きました」
二人は顔を見合わせた。
男のほうが、少しだけ笑みを深くした。
「なるほど。それは、興味深いですね」
「興味深い、ですか」
「ええ。最近、ときどきそういう方が出てきています。『外したときに見えるもの』に、戸惑う方が多いようで」
女のほうが、タブレットを操作しながら言った。
「佐伯さんは、外してみて、何を感じましたか」
僕は、昨日見た光景をできるだけ正確に伝えた。
無表情の笑顔、薄い声、無音に近い街。
そして、自分の顔も、筋肉だけが笑っているように見えたこと。
二人は、真剣にうなずきながら聞いていた。
やがて、男がこう言った。
「それは、ごく自然な反応です」
「自然、ですか」
「はい。わたしたちも、似たようなものを見ますから」
意外な言葉だった。
「あなたがたも、外すんですか」
「仕事ですからね」
男は肩をすくめた。
「ただ、その上でひとつ、お伝えしなければならないことがあります」
「なんでしょう」
「幸福メーターは、すでに『制度』です。支援の配分、治安の維持、経済活動の安定――いろいろなものが、この数字を前提として組み立てられています。つまり、数字がゼロの人がいるという事実は、制度そのものにとって、あまり望ましくないのです」
女が、タブレットに何かを書き込みながら言った。
「さきほど、あなたは『街が無表情だった』とおっしゃいましたね。でも、多くの人にとっては、幸福メーターをつけている限り、そのようには見えません。見えないほうが、生活はずっと安定するのです」
男が、穏やかな声で続けた。
「ですから、わたしたちの仕事は、ゼロになった方に、もう一度『100の世界』に戻っていただくことなんです」
つまり、僕を「元に戻す」ということらしい。
僕は、思わず聞き返した。
「戻る、とは?」
「簡単です」
女が、引き出しから小さなケースを取り出した。
中には、見慣れた銀色のバンドが入っている。
「これは、新しい型の幸福メーターです。特別モデルで、通常のものより少しだけ、感度が高い。これをつけて、少しのあいだ、こちらの指示どおりに生活していただきます。ポジティブな番組を見る、感謝日記をつける、笑顔体操に参加する。そうしているうちに、数字は自然と戻っていきます」
「もし、つけなかったら?」
二人は、同時に笑顔を深くした。
「もちろん、強制ではありません」
男が言った。
「ただ、その場合、支援の対象からは外れます。住宅ローンの優遇措置、医療費助成、子育て支援……そういったものは、すべて『安定した幸福状態』を前提としていますから」
女が、淡々と付け加えた。
「それから、職場にも通知が行きます。『幸福状態に不安定要素がある職員がいる』という形で。今後の人事評価で、多少考慮されるかもしれません」
つまり、僕には選択肢が二つある。
ひとつは、新しい幸福メーターを受け取り、もう一度「100の世界」に戻ること。
もうひとつは、ゼロのまま生きること。
その代わり、あらゆる支援と評価を失うこと。
男は、ケースをテーブルの上に置いた。
「さあ、どちらになさいますか」
部屋は静まり返っていた。
天井の照明が、白く均等な光を降り注いでいる。
外からの音は、一切聞こえない。
僕は、自分のポケットから、古い幸福メーターを取り出した。
液晶には、相変わらず「0」が表示されている。
その数字を、しばらく見つめた。
ゼロ。
何も持っていない。
何も保証されていない。
けれど、少なくとも昨日、僕は「笑っていない街」を見ることができた。
テーブルの上の新しいメーターは、まだ数字を持っていない。
けれど、つけた瞬間、きっとまた「100」を表示するだろう。
そして僕は、再び「何も見えない世界」に戻っていく。
男と女の視線が、僕に注がれている。
どちらも笑顔だ。
その笑顔の裏側に、どんな表情が隠れているのか、僕には想像できなかった。
やがて、僕は口を開いた。
「……少し、考えさせてください」
二人は顔を見合わせ、うなずいた。
「もちろん。これは、とても大事な選択ですから」
女が言った。
「ただ、あまり時間はありません。ゼロの状態が長く続くと、周囲への影響も出ますので」
男が付け加える。
「一週間後までに、お返事をください。それまでは、今のままで結構です」
面談室を出ると、廊下には誰もいなかった。
窓はなく、空気は少し乾いていた。
僕は自分の古い幸福メーターを握りしめたまま、ゆっくりと外に出た。
夕方の街は、やはり静かだった。
人々は相変わらず、薄く笑いながら歩いている。
腕のメーターは、どれも一様に100だ。
信号待ちの列の中で、ひとりの少年が、じっと自分の腕を見つめていた。
彼の顔には、かすかな迷いが浮かんでいる。
やがて彼は、そっとバンドに指をかけた。
しかし、その指は途中で止まり、まるで何かに阻まれたように離れてしまった。
すぐそばで、その様子を見ていた母親が、優しく言った。
「外しちゃだめよ。せっかく100なんだから」
少年は小さくうなずいた。
表情は、すぐに何も映さない面のようになった。
僕はふと、自分の腕を見た。
そこには何もない。
空っぽの手首が、夕焼けの光を浴びていた。
しばらく立ち尽くしたあと、僕は、ゆっくりとポケットの中から古い幸福メーターを取り出した。
手のひらの上で、液晶がかすかに光る。
数字は、変わらず「0」だ。
僕は、それをしばらく見つめてから、近くのゴミ箱の前に立った。
手を持ち上げる。
指先が、迷う。
ゴミ箱のふたは開いている。
中には、紙くずや空き缶が詰まっている。
そこに、これを放り込めば、ゼロの世界とはお別れだ。
あとは、新しいメーターを受け取り、もう一度「幸福」に戻ればいい。
耳の奥で、あの静寂が響いていた。
笑っているようで、笑っていない街。
口元だけが上がり、目がどこにも向いていない人々。
その光景は、決して心地よいものではなかった。
だが、何も知らないまま、100の数字に安心して暮らしているほうが、幸福なのかもしれない。
その「幸福」が、本物かどうかは別として。
僕は、ゴミ箱のふちに手をかけた。
幸福メーターが、かすかに震えるように見えた。
液晶の数字が、ほんの少し、揺らいだ気がした。
0。
その右側に、かすかに小さな点が灯った。
0.1。
気のせいかもしれない。
それでも、僕にはそう見えた。
僕は、ゴミ箱のふたをそっと閉めた。
そして、幸福メーターをポケットに戻した。
街は、相変わらず静かだった。
人々は、100の数字を腕に巻いたまま、無表情に笑っている。
誰も怒らず、誰も泣かず、誰も叫ばない。
ただ一人、ゼロの数字をポケットに入れたまま、僕はその中を歩いていった。
どちらが幸福なのか。
それを決めるメーターは、もう腕にはない。
代わりに決めるのは、きっと、そのうち他の誰かだろう。
新しい制度の名前は、まだ発表されていない。
僕は、少しだけ口元をゆるめた。
ショーウィンドウに映った自分の顔は、やはり相変わらず、よくわからない表情をしていた。
幸福メーターが示す世界と、何も示さない世界。
そのあいだの、どこか曖昧な場所を歩きながら、僕は家路についた。




