05 女神は罰を歩む
昼下がりの展示室は、ひどく静かだった。
昼食時のせいか、人影はほとんどない。
俺たち以外に客は一組、遠くの展示室で声を潜めて話している。
ほぼ貸切のような静寂だった。
窓から入る光が床を淡く照らし、
古い木目に、時間の影を描いている。
俺とネティは、並んで長椅子に座っていた。
どちらも口を閉ざしたまま、
さっきまで見ていた勇者セリオスの記憶を反芻していた。
ネティは、胸元から青い革表紙の重厚な手帳を取り出した。
いつも大事そうに身に着けていて、
時たま必死に何かを書き込んでいる手帳だ。
擦り切れた角。
金の紋様がかすかに残り、
長い時間を過ごしたことを物語っている。
「チェチさんには、私から話すより
“見て”もらう方が早いかもしれません」
「透影……か」
「はい。けれど、今度は“わたしの過去”です」
その言葉に小さく頷き、目を閉じた。
光が弾け、世界が音もなく裏返る。
◇◇◇◇
——光の世界。
空も地もない。
ただ白い光がどこまでも続いている。
そこに立つ人影は、二つ。
ひとりはネティ——いや、“女神ネティア”。
今よりも堂々とした立ち姿。
白金の神衣を纏い、背には青い紋章。
もうひとりは——
“美しい”という言葉が、侮辱になるほどの存在。
人のような形をしているが、男か女かすら分からない。
長い髪をひとつの三つ編みにまとめ、淡い光を纏っている。
その声は穏やかだが、底に何の温度もなかった。
笑っているようで、ただ静かに事実を述べているだけだ。
俺は過去を見ているだけで、
あちらと干渉できるはずはないが
目が交わった感覚に陥って心臓が軋む。
感情を探しても、何も掴めない。
恐怖というより、“理解できない”という怖さ。
その存在が、ゆっくりと声を発した。
『言い訳は要らないよ、ネティア。
君が誰のために選んだか、わたしには分かっている』
声は柔らかいのに、響くたび世界が微かに震える。
ネティアは跪き、頭を垂れた。
『君が入れ替えた魂は、優しく、よく働いた。
だが、選ばれた器には合わなかった。
本来の場所にあるべきものを、別の場所へ移したね』
ネティアは唇をかすかに動かす。
『御主……。
わたしは、彼を送る時期を間違えました』
『うん、そうだね。
本来なら“揺らぐ日”に呼ぶはずだった。
でも君は、そのずっと後に落とした』
その声音には、咎める調子も、怒りもない。
ただ淡々と。
まるで「今日の天気」を告げるような平静さで言う。
『どうして?』
小さく首を傾げる。
その所作ひとつひとつが、美しすぎて、冷たかった。
『……あの子は、確かに“普通の魂”でした。
でも他所の世界から無理やり引きずってくるより、
この世界の理の中で選び取る方が、
ずっと穏やかな結末になると、そう思ったんです』
ネティと対面する存在の瞳が、淡く細められた。
その仕草は優しげでありながら、
どこか観測者のような距離を感じさせた。
『なるほど。君らしいやり方だ』
声は淡々としているのに、どこか皮肉にも聞こえた。
『でもね、それで時間の線が絡まっちゃった。
ほら、見てみなよ』
空間に光の糸が無数に浮かび上がり、
その一部が複雑にねじれていた。
それは生き物のように脈打ち、どこかで弾けた。
ネティアは、その光景から目を逸らせなかった。
『……承知しています』
『まあ、直すほどのことでもないよ。
君の仕事は、後始末だ』
『……罰を、受けるということでしょうか』
『うん。降りてもらう。女神の座を、しばらく。』
精霊として地上に降りなさい。
自分の采配がどう世界に影響したかを、見届けてきて。
終わったら禊が済んだことにしよう』
『……はい。
それがわたしの償いなら、喜んで』
『そう言うと思った。君はいつも真面目だから』
わずかに微笑んだが、その笑みは
穏やかにも見えるし、嘲りのようにも見えた。
結局どちらなのか、最後まで分からなかった。
そして、ふと何かを思い出したように指を鳴らした。
『あの魂の入れ物はチェチーロと言ったね。
いずれ彼に、ある“視座”を与えることにしよう。
過去に刻まれた思念の残響を、感じ取る力がいいかな』
ネティアは顔を上げた。
その瞳に、かすかな戸惑いが浮かぶ。
『……理由をお聞きしてもよろしいでしょうか』
『彼とともに、世界を回るといい。
本来あるべき軌跡を理解している者がいるほうが、
差を照合できるだろう?』
創造神の声は静かで、あまりに整っていた。
情感の欠片もない。
『罰に、他者を巻き込むのですか』
『罰とは、孤独である必要はないよ』
『だから、彼と共に行きなさい。
君の罰と、彼の存在は対になる』
『……わたしの罰と、彼の存在が……』
ネティは何か言いたげな顔をしていたが、深く頭を下げた。
『……承知しました』
『さあ、行っておいで。ネティア。
君が作った過去を見て、どう思うか——
私は楽しみにしているよ』
御主と呼ばれる存在は静かに笑った。
だがその笑みには、いかなる温度もなかった。
それは、美しすぎて恐ろしい“世界の理”そのものだった。
光が砕け、世界が反転した。
◇◇◇◇
目を開けると、展示室の光が戻っていた。
静かな午後。
木の香りと、埃の匂い。
ネティは膝の上で両手を重ね、視線を落とした。
「これが……わたしが罰を受けた理由です。
采配を誤ったのは、わざとでした。
本当に申し訳ありません」
そう言って、ネティは静かに立ち上がった。
視線をまっすぐこちらに向けたまま、ゆっくりと頭を下げる。
「このほうが、世界がより穏やかになると思ったんです。
でもわたしが選び替えた魂は、優しかった。
このあと、彼は立ち上がり魔王を討ちますが、
それでも、強くはなかったのです」
言葉を聞きながら、俺は先ほど見た映像を思い出していた。
膝を抱え、泣き崩れる勇者の姿。
紙を握りつぶして「なんで俺が」と呟いていた、あの顔。
沈黙。
昼下がりの光と気まずさが、二人の間を漂う。
「あのさ、夢の中でさ、どんな力が欲しいか聞かれたけど……
この能力、ネティが決めたみたいな顔してたけど、違うんだな」
「……はい?」
「だってあの時、“力を授けます”みたいなドヤ顔してたじゃん。
実は権限なかったのって面白いなって」
ネティは、一瞬きょとんとした。
あまりにも急に話の調子が変わったものだから、
思わず口を開けたまま固まってしまう。
やがて、肩の力が抜けたように微笑む。
「……もう。真面目な話をしていたのに」
小さくため息をつきながらも、
その声音にはどこか安堵が混じっていた。
「力を決められたのは御主ですが、
授けたのは私なのだから、いいじゃないですか!」
照れ隠しのように少し声を張ったネティを見て、俺は思わず笑った。
重たい空気が、ふっと解ける。
窓の外から差し込む光さえ、少しだけ柔らかくなった気がした。
——神の罰を受けた女神。
——その罰に巻き込まれた人間。
けれど、この旅の行く先がどんなものであっても、
いまはただ、光の中で生きている。