04 勇者はハンバーグを食べる2
宿の食堂は、旅人で賑わっていた。
皿と皿が触れ合う音、スープの香り、焼いた肉のジュウという音。
壁には、簡素な絵が飾られている。勇者が湖のほとりで笑っている絵だ。
「これ、勇者が好きだったご飯みたいです」
ネティがメニューを指差す。
《勇者セリオスの好物 目玉焼きハンバーグ》の文字。
「……そんな情報、設定資料にもなかった」
思わず前のめりになる。
「新たな資料の発見ですね」
ネティはまるで古文書に出会った学者のような口調で、
しかし視線は隣の席に届いた目玉焼きハンバーグに釘付けだった。
「黄身の部分が、きれいですね。崩すのが惜しいくらい」
「感想が完全に食いしん坊だよ」
「未知との遭遇です。頼みましょう」
結局、俺も同じものを頼む。
出てきた皿は香ばしく、ナイフを入れると肉汁が溢れ、
目玉焼きの黄身がとろりと流れた。
「明日は勇者の生家を見に行こうと思う」
「街の案内図で見ました。ここから歩いて半刻ほどですね」
「そこが終わったら、また路銀を稼がないとな」
「そうしたら、今後も美味しいものを食べられますし。
あ、プリンも美味しそう……」
あまりに真剣な顔に、思わず笑ってしまう。
好奇心には勝てない。
◆◇◆◇
翌朝。
アルディナの陽光は柔らかく、街の空気にまだ朝露の香りが残っていた。
パン屋の前に、焼き上がりを待つ人の列。
教会の鐘が遠くで二度鳴る。
俺とネティは、街の外れにある“勇者の生家”へ向かった。
「ここが勇者が生まれた家ですか。思ったより普通ですね」
「確かに」
建物は驚くほど普通だ。
石の土台に木の壁、低い屋根。街政院が管理しているらしく、手入れは行き届いていた。
入場料を払えば中を見学できるらしい。
完全に観光地だ。前世でも似たような場所を見た気がする。
中は静かだった。
見学者は俺たちを含め三組ほど。
板の軋む音が、空間の古さを優しく主張する。
壁には古い衣服や器、当時の地図の写し。
説明文は簡潔で、感傷の押しつけがないのが良い。
「ここからの眺めは、穏やかですね」
ネティは展示室の奥にある大きな窓から、外を眺めていた。
差し込む光が白い髪に透け、輪郭が淡く霞む。
俺は頷きながらも、視線を部屋の奥に向ける。
目的は、あの部屋——“セリオスの部屋”。
そこだけ、扉が半ば開いていて、光が漏れていた。
「少し見てくる」
「ええ、わたしはもう少し、この景色を見ています」
彼女は振り返らなかった。
部屋の中で、俺は小さく息を整え、呟いた。
「透影」
床板の一角に、青いモヤが染みついていた。
そこに足を踏み入れると、温度が一度下がった気がした。
◇◇◇◇
——暗い。
夜のように暗い部屋。
若い男が床に座り、ベッドに上半身を投げ出している。
肩が大きく上下し、指が紙を握り潰さんばかりに食い込んでいた。
『なんで……俺が……』
握られた紙がわずかに揺れる。
封蝋に王家の紋章。文言は硬く冷たい。
一枚の羊皮紙——「王の命」による出兵命令。
『俺に魔王なんて、倒せるわけが……』
声は途中で途切れ、喉の奥で潰れた。
拳を額に押しつけ、呼吸を荒くする。
涙は流れていない。ただ、絶望がそこにあった。
◇◇◇◇
映像が消え、部屋の静寂が戻ってくる。
俺はしばらく言葉を失ったまま、その場に立ち尽くした。
英雄譚もヒロパスも彼を“最初から勇者”として描く。
どちらも、ここにある一瞬を持っていない。
誰の目にも触れない“ただの青年”の、紙片を握りしめる手の震えを。
「チェチさん」
背後から、ネティの声。振り向くと、彼女はほんの少し眉を下げていた。
「どうでしたか、勇者の過去は」
「……思ってたのと、全然違ったよ。もっと、こう……」
「熱い英雄でしたか?」
「……」
この世界の勇者が、ヒロパスの勇者とは別人だと、頭ではわかっていた。
それでも、“勇者”という言葉の響きに、どこか特別な輝きを期待していた。
けれど、目の前にいたのは——
選ばれたというより、選ばれてしまった人間だった。
ネティは小さく息を吐き、備え付けの椅子に腰を下ろした。
膝を揃え、両手を重ねる。
窓からの光が、白銀の髪を縁取っている。
「わたしが、チェチさんと一緒に旅をする理由を……
まだ、きちんとお話していませんでしたね」
俺は黙って頷く。心臓が一度、大きく打った。
ネティは視線を落とし、言葉を選ぶように一息置いた。
「この話は、少し長くなります。……席を移しましょうか」
彼女が立ち上がり、展示室の隅に設けられた休憩用の長椅子を指した。
俺は最後にもう一度だけ部屋を見回し、あの青いモヤの場所に目を落とす。
英雄は、泣かないわけじゃない。
ただ、泣いた瞬間が語られないだけだ。
俺は扉を静かに、勇者の絶望を部屋閉じ込めて
ネティのあとに続いた。