02 彼女はプリンを知り、僕は過去を見る
リュセオンの街は、人の声で溢れていた。
露店の呼び込み、鍛冶屋の金槌、荷馬車のきしむ音。
村では聞いたことのない音ばかりで、俺は歩くだけで胸が高鳴った。
「この世界にこんなに人っていたんだ…」
思わず漏らした独り言に、隣でネティが微笑む。
「活気がありますね。どこも、人の息づかいで満ちています」
街の中心を抜けると、石畳に沿って喫茶店や宿屋が並んでいた。
窓からはパンの香りや、煮詰めた果実の甘い匂いが漂ってくる。
俺たちは「旅の出発記念と作戦会議」を兼ねて、
その中でも少し落ち着いた雰囲気の喫茶店に入ることにした。
どの店も村にはない洒落た店ばかりで、入店するだけで緊張してしまう。
カウンター席の奥、陽の光が差す小さなテーブルに腰を下ろすと、
店員が差し出したメニューを、ネティはじっと見つめた。
紙を触る指先は、人間より少し透けて見える気がする。
「チェチさん、わたし……“プリン”というものを試してみたいです」
「甘党だね。じゃあ、俺はサンドウィッチとコーヒーで」
ほどなくして運ばれてきた皿の上には、
琥珀色に輝くプリンと、瑞々しい季節のカットフルーツが載っていた。
ネティは恐る恐るスプーンを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
「……あ、これは面白いです!」
「味覚の感想として“面白い”は新しい」
「甘さよりも、舌に広がる“幸福感”が印象的です。人はこうして心を満たしていくのですね」
その言葉に、俺はコーヒーを飲みながら小さく笑った。
彼女は食べ物を知識としては知っているが、味わうのは初めてらしい。
女神だった頃は、聖水と光だけで生きていたという。
「お腹が空く」という感覚も、きっと今は学んでいる途中なのだろう。
「さて、本題だよ」
テーブルの上に「英雄譚」を置き、表紙を指で叩く。
「この本を道しるべに、勇者たちの足跡を辿る。
物語の最初に書かれているのが、勇者の生まれ故郷。
まずはそこを目指す」
「アルディナ……すべての始まりの地……」
「勇者セリオスが生まれ、仲間と出会い、最初の一歩を踏み出した村。
封印を解かれ、過去と向き合う魔法使いリュシア。
村に留まることを望みながらも、己の拳で未来を掴もうとした武闘家バルグ。
かつて信仰を失い、再び神と向き合うことで立ち上がった聖職者オルフェ。
強すぎる力を恐れながらも、仲間を守るために剣を振るった戦士ライラ。
民のために祈りを捧げ続けた聖女イリーネ。
そして、過ちを悔い改め、盗賊団を捨てて仲間に加わったフェンリス。
六人の魂と出会い、世界を平和に導く——それが“英雄譚”の流れ。」
ネティは静かに聞きながら、伏し目がちな瞳で本を見つめ、指先でページを撫でた。
ふとした瞬間を切り取っても絵になる姿に、心臓がドキリとする。
「よくそこまで覚えていますね…」
含みがある表情だったから身構えたが、ただドン引きしているだけだった。
「攻略本は隅から隅まで読んだし、設定資料も説明書も暗記してるからね」
「設定資料?」
「裏ボス出現条件とか、NPCのセリフ分岐とか」
「なるほど。えぇ、えぇ。情熱があることは素晴らしいことだと思います…ね」
やっぱり絶対呆れている。
均整の取れた顔は明らかに引きつっているが、こちらに感じ取られないよう
一生懸命口角を上げて誤魔化そうとしている。
「話を戻すんだけどさ。
ヒロパスの勇者もセリオスって名前なんだけど、
この英雄譚にある絵姿は全く違うし、
仲間にできる人数にも制限があるから、正直英雄譚には違和感しかない。
俺が知る物語、この英雄譚にある内容のどちらが正しいのかを見て回りたい」
「英雄譚に沿って進むことに意見はありません。
しかし、どれだけの時間がかかるのでしょうか」
「分からない。だから金が要る」
俺は乾いた笑いを漏らした。
「アルディナまでは馬車で行く。宿も食費も考えると、少しでも稼いでおかないとね。
思いだけで旅はできないからさ……」
父から餞別を貰っているが、なるべく使いたくないし、使ったとしても途中で足りなくなるのは目に見えている。
「人間は何をするにもお金が必要だということは存じています。
わたしは精霊の身なので飢えの心配はしていませんが、
あなたはそうはいきませんから」
「冷静だな」
「事実ですから」
彼女はにっこりと微笑んだ。
◆◇◆◇
店は客で賑わい始めた。
陽光が傾き、窓辺の影が伸びていく。
俺たちは“旅の資金をどう稼ぐか”という現実的な話に移った。
「チェチさんの力……その、残留思念を見る能力。あれを試してみませんか?」
「ここで?」
「ここで」
ネティは周囲を見回しながら、声を落とした。
「わたしの知る限り、この力は“過去の感情”を糸のように引き出すもの。
時間が近いほど、鮮明に映ります。
ただし、思念が残るのは“強い感情”を発した場所だけです」
「強い感情……例えば?」
「愛、怒り、悲しみ、恐怖。……あるいは、執着」
「喫茶店のテーブルにそんな感情があるのか?」
「人の営みがある限り、どこにでもあるものです」
そう言ってネティは、俺の前にあるコーヒーカップの隣へ、そっと手を伸ばした。
「さあ、目を閉じて。わたしが導きます」
俺は言われるままに瞼を下ろした。
「復唱してください、透影」
「透影―――」
「その場所に落ちている影を透かして、過去を見るイメージです」
耳の奥で風がざわめき、視界がぼやけていく。
そして——
テーブルの向こう側に、男女の姿が現れた。
若いカップルらしい。
男が声を荒げ、女が泣きそうな顔で睨み返している。
『なんで言ってくれなかったんだよ!』
『言ったら止めたでしょ!?』
『当たり前だ!おまえが危険な場所に行くなんて——』
『だから、言えなかったの!』
カップの中の紅茶が倒れ、液体がテーブルを濡らす。
その瞬間、視界が波打った。
思念が消え、現実の音が戻ってくる。
「……今の、見えた?」
「ええ。随分と鮮明でしたね」
ネティは目を細め、静かに微笑んだ。
「おそらく、ほんの数十分前の記憶です。
これほどはっきり残るのは、感情の爆発が強かったからでしょう」
「なるほど。じゃあ、ここは喧嘩の名所ってことか」
「ふふ、それは困りますね」
ネティはプリンの皿を片付けながら、淡々と続けた。
「この力の性質として、“見える”だけで“干渉”はできません。
過去の情景を観察することはできても、運命を変えることは不可能です。
言うなれば、風に映る影を見るようなものですね」
「……じゃあ、見たものに意味は?」
「あると思います。
残留思念は、時間の“残響”です。そこに生きた人の証であり、
わたしたちはそれを通して、今を学ぶことができます」
「ずいぶんポジティブな解釈だな」
「ポジティブでなければ、人は前に進めません」
彼女はまた、あの少し寂しげな笑みを浮かべた。
「それに——」
ネティは空になったプリン皿を見つめる。
「感情は、美しいものです。喧嘩も、愛も、憎しみも。
それがある限り、人は“人”でいられるのですから」
窓の外で夕陽が傾く。
街路の灯がともり、石畳が金色に染まる。
俺はその景色を眺めながら、手帳を取り出した。
「アルディナ行きの馬車、出発は明後日か……。それまでに仕事を見つけないと」
「どんなお仕事をお探しですか?」
「時間がないから実入りが良い仕事がいいんだけど、
あいにく俺はネティに貰った力以外、特殊なことはできないから……」
「でしたら、わたしも考えます」
ネティは胸を張って言った。
「わたしには《浄化》の祈りがあります。小さな神殿で病人や怪我人の清めをすれば、多少の報酬がもらえるかもしれません」
「意外と現実的だな」
「現実的でなければ、旅は続きません」
俺は吹き出した。
気品ある口調なのに、言っていることは妙に生活感がある。
「……なあ、ネティ」
「はい?」
「おまえ、女神のくせにだいぶ人間くさいな」
「それは褒め言葉と受け取っておきます」
互いに笑い合う。
喫茶店の空気が、昼間より少しだけ柔らかくなった気がした。
「さて、そろそろ行こうか。今日の宿、まだ決めてないし」
「ええ。……あ」
ネティがふと視線を上げた。
テーブルの反対側、ついさっき見た男女の席。
そこには、もう一度現れた思念——いや、今度は現実の二人がいた。
男が頭を下げ、女が涙を拭いながら笑っている。
「仲直り、したみたいですね」
「……そうみたいだな」
俺たちは目を合わせ、同時に笑った。
コーヒーの苦味が、いつもより少しだけ優しく感じた。