01 英雄譚は終わりから始まる
俺の名前はチェチーロ。村のみんなはチェチと呼ぶ。
ここは山と川に囲まれた小さな村で、争いも盗賊もほとんどいない、世界の片隅みたいな場所だ。
朝は鳥の声で目覚め、畑を耕し、夕暮れには父と小さな囲炉裏を囲む。
それが当たり前の日々だった。
十四歳になったばかりで、村ではもう成人扱い。けれど俺自身は、まだ子どもの気分のままだった。
旅に出ようとか、英雄になろうとか、そんな大それたことは考えていなかった。
ただ、この平和な村で生きていくのだと、そう思っていた——あの日までは。
◆◇◆◇
あれは、春の終わりの市の日だった。
年に数度、村にやって来る行商人は、噂や品物だけでなく、外の世界の匂いを運んでくる。
俺は薪割りを終えた帰り、広場の隅でその荷台を覗き込んでいた。
「おや、チェチじゃないか。今日は珍しいものを持ってきたんだ」
陽に焼けた顔の行商人が、荷台から一冊の本を取り出した。革張りに金文字が光る厚い本だった。
「英雄譚さ。勇者が魔王を倒した話。古いものだが、いい読み物だぞ。ほれ」
「英雄譚なんて…。おじちゃん、俺もう14歳だよ」
俺は思わず手を伸ばして、その本を受け取った。重みが掌に伝わる。革の匂い、ひび割れた背表紙、そこに刻まれた金の文字。
行商人はにやりと笑った。
「お前の歳だと、そろそろ外の世界に憧れる頃だろ? これでも読んで夢を見るんだな。俺もお前くらいのときは、大きな都市に憧れたもんでな…」
おじちゃんは延々と喋っているが、無視してページをめくった。
勇者。魔王。仲間たちとの旅路。
——間違いない。
俺が前世で夢中になっていたゲーム「Hero’s Path」の物語だ。
ヒロパスは、剣と魔法の王道RPGだった。選んだ仲間、救った国、結んだ絆でエンディングが変わる。
何度も周回し、エンディングの分岐を探し尽くした。
俺の青春の一部で、世界のどこかに本当にあってほしいと願った舞台だった。
けれど、目の前の本は違っていた。
勇者の顔立ちも、仲間の名前も、結末さえも違う。どのエンディングにも当てはまらない。
俺が知っている物語と似ているのに、別の歴史が”英雄譚”として残されている。
ページをめくる手が震えた。ここは……本当に、あのヒロパスの世界なのか?
その夜、夢を見た。
白銀に輝く空間の中央に、一人の女性が立っていた。
銀髪に紫の瞳、柔らかい光を帯びたその姿は現実離れしているのに、不思議と怖くはなかった。
「初めまして、チェチーロさん」
澄んだ声でそう言った彼女は、自らをネティアと名乗った。
「わたしはかつて女神でした。あなたを、本来あるべき時代に転生させる役目を担っていたのですが……誤りを犯し、今は罰として精霊の身となっています」
彼女は深く頭を垂れた。
どうやら、本来の俺は勇者として活躍するはずだったらしい。だが彼女の過ちで、“物語が終わった世界”に生まれてしまったという。勇者がいないままでは混沌に陥るはずだったが、別の人間が勇者となり、この地を平和へ導いた——それが今の時代だ。
「本当に、申し訳ありません。償いになるかは分かりませんが……なにか一つ、わたしができる範囲であなたに力を授けます。希望はありますか? あぁ、いきなりこんなこと言われても困りますよね」
俺は胸の奥に渦巻く思いをそのまま口にした。
「この世界って、ヒロパスだろ? でもさ、記憶とぜんっぜん違う部分もある! だから過去に行って直接見てみたい! 勇者の戦いを目の前で体験できるなんて最高じゃん! ゲームじゃイベントシーンでバッサリ省略されてた裏話とか、絶対あるだろ!? そういうの知りたいんだけど、できるの?」
ネティアは少しだけ寂しげに笑った。
「わたしに残された力では……時間を遡ることはできません」
けれど、と続ける。
「土地や物に刻まれた過去の“感情”ならば、あなたに見せることができます。強い思いであればあるほど、鮮やかに。悲しみも喜びも、そのままに。もちろんその土地に訪れる必要がありますが…」
その言葉を聞いた瞬間、胸が震えた。
勇者たちが駆け抜けた道。仲間と交わした誓い。血と涙が刻まれた戦場。
それを自分の目で確かめられるなんて——。
「それでもいい!」
ネティアが指先をそっと掲げる。光が俺の胸に流れ込み、心臓が一度大きく脈打った。
「これで、あなたは残留思念を見ることができます。あなたの望みが、叶いますように」
翌朝、父に出立のことを伝えた。
父は無口な人で、俺を見つめたあと、しばらく黙り込んでいた。
やがて深いため息と共に、背中を軽く叩いてくれる。
「母さんの血を引いたんだな……止めても聞かんだろう」
低く、いつもの調子で言う声に、ほんのわずか寂しさが混じっていた。
「父さん……」
「気をつけて行け。外は村とは違う。道の途中で嫌なやつにも会うだろう。だが——おまえは自分で選んで歩け」
それだけ言って、父は小さな革袋を差し出した。中には銅貨が数枚。
「旅の糧にしろ」
無骨な手のひらが、ほんの少し震えているように見えた。
胸が熱くなった。
俺は涙をこらえて笑い、「ありがとう」とだけ言った。
こうして俺は村を後にした。
勇者が駆け抜けた世界の、残響を辿るために。
◆◇◆◇
目指すのは村から一日歩いた先にある交易都市。
高い城壁に囲まれた門をくぐると、見たこともない人混みと喧騒に圧倒された。
市場の声、異国の香辛料の匂い、荷馬車の轍の音。胸が高鳴る。
まるでゲームの中に入り込んだような感覚だった。
今までも確かにヒロパスの世界の住民だったわけだが、自覚をすると、なんでも真新しく見えてしまう。
「すげぇ……これがリュセオンか」
思わず口から漏れた。
露店でパンを買い、神殿の回廊に立ち寄ったときだった。
白い石柱の影から現れたのは、夢で見た彼女——ネティアだった。
「やっとお会いできましたね、チェチさん」
俺は思わず足を止める。
「……ネティアさん、ですか?」
「はい。今は人の姿で過ごしていますが、ネティアです。どうぞ、ネティとお呼びください」
彼女は少し微笑んで言った。その笑顔は夢で見たときよりも人間らしく、どこか親しみやすかった。
「御…上司から、この世界を巡るようにと指示があったのです。そこで、できればチェチさんとご一緒したいのです」
「俺と?」
「はい。あなたの目に映るものを、わたしも共に見届けたい」
丁寧な口調なのに、どこか弾む声。胸の奥から素直な願いが滲み出ているように聞こえた。
俺はしばらく彼女を見つめて、それから笑った。
「分かった。一緒に行こう、ネティ」
「ありがとうございます、チェチさん」
ネティの紫の瞳がふっと柔らかく揺れた。けれどその奥には、精霊となった彼女だけが抱える責務の影がちらついているようにも見えた。
二人でしばらく市場を歩いた。人々の賑わいの中で、彼女は時折、立ち止まって露店を眺めたり、子どもに微笑んだりしていた。その様子はまるで普通の旅人のようで、俺は「女神だった存在」がこんなふうに人の世に溶け込む姿に、妙な感慨を覚えた。
「チェチさん。……あなたは本当に、この世界の歴史を追いたいのですね?」
「もちろん。この言葉が、この世界にもあるか分からないけど、聖地巡礼ってやつ。それに俺はヒロパスのファンとして、どういうルートを辿っているのかを確認したい」
「…あなたが想像するお話じゃないかもしれません」
「それでも構わない。せっかく好きなゲームの世界に来たんだから、探求しなきゃ損でしょ」
少しの沈黙。市場の喧噪の奥で、彼女の声だけが澄んで響いた。
「……では共に歩みましょう。わたしもまた、この世界を見届けなければならないのですから」
こうして、俺とネティの旅が始まった。
勇者の時代はとうに過ぎ去り、物語は歴史になった。
けれどその残響を追いながら歩む巡礼が、今まさに始まろうとしていた。