わたくしと離婚ですか? それでは、わたくしについてくる者は連れていきます
王宮の玉座の間は、朝の陽光に包まれていた。美しいステンドグラスから差し込む光が、床に虹色の模様を描いている。
「アデリナ、そろそろ離婚してくれ」
ああ、ついに来たか、と王妃であるわたくし──アデリナ・エルレインは、心の中でため息をついた。
「わたくしと……離婚ですか?」
「そうだ。お前も、もう分かっているだろう。俺にはエルミナがいる。エルミナを正妃にしたいんだ」
エルミナとは、国王の愛人である。貴族の末娘で、身分は低いが美貌を武器にして王に取り入った、いわゆる“寵姫”だ。
「なるほど……では、わたくしは側妃にでも?」
「ああ、その通りだ。お前の仕事ぶりは評価している。これまで通り政治は任せるし、表向きの行事にも出てもらう」
「ではお尋ねしますが、そのような扱いで、わたくしが従うと思って?」
国王ディランの顔が一瞬、こわばる。
「……は?」
「離婚は承知いたしました。ただし、わたくしは王宮を出て行きます。そして、わたくしについてくる者を、全員連れて行きますわ」
「な……何を言っている!」
「言葉通りですわ、陛下」
静かに立ち上がると、わたくしは微笑んだ。長年、王妃として尽くしてきたこの城──だが、愛されていたわけではない。愛されていないと、はじめから分かっていました。
けれど、わたくしはこの国を、そしてこの国の人々を愛していた。だから、王としての器量も才覚も持たぬ男の代わりに、日夜働いてきたのです。
「政務官、財務官、軍司令、衛兵長、侍女長、料理長……彼らは、わたくしの指示で動いております」
「……ま、まさか……」
「城の者の八割は、わたくしの人脈でございます。彼らはわたくしの命令で動き、わたくしを信じて国の秩序を保ってまいりました。わたくしが去れば、彼らも共に去るでしょう」
「お、おい……そ、そんなことになれば……!」
国王は焦っていた。当然だ。彼は王という地位に安住し、政を放棄して久しい。法案はわたくしが考え、書類はわたくしが通し、外交はわたくしが全てさばいた。
この国は、わたくしの手の中にあったのだ。
「す、すまない! エルミナが……あの女が言うから……お、俺は本当は、そ、そんなつもりでは……!」
「そんなつもり、ではなくて?」
わたくしは、ひときわ冷ややかな笑みを浮かべた。何年も、心無い仕打ちに耐えてきた。宴の席で、エルミナを隣に侍らせてわたくしを無視し、行事の場では手を取るのも嫌そうな顔を見せたあなたに。
「陛下。わたくしは、誇り高きエルレイン公爵家の娘。正妃としての義務と責任を、これまで一日たりとも怠ったことはありません」
わたくしは、静かにティアラを外す。
「それでもなお、わたくしを侮るというのなら……わたくしは、わたくしについてくる者を連れて、新たな未来を築くだけですわ」
「ま、待て! 冗談だろう!? エルミナと結婚するのは、ちょっとした気まぐれで……!」
「では、せいぜい“気まぐれ”とやらに国を託してみなさいませ」
「わ、わかった。離婚は取りやめだ。これまで通り、お前が正妃でいてくれ。エルミナには、俺から話す」
「ふふ……もう手遅れですわ、陛下」
王宮を出ると、すでに多くの者が門の前に集まっていた。
「王妃様……いえ、アデリナ様、わたくしどももご一緒いたします!」
「アデリナ様のおかげで、我らの仕事は誇りに満ちておりました」
「どうか、お連れください!」
政務官、軍司令、侍女たち……続々と人が列をなす。
気づけば、王城の中は閑散としていた。残ったのは、王とその愛人、一部の王族だけだろう……。
一方、わたくしたちは、エルレイン公爵家の広大な領地にそびえる城へと向かっていた。王妃の座を退いたとはいえ、その威光が翳ることはない。なにしろ、エルレイン家の影響力は、もとより王家をも凌いでいたのだから。
今や、国の中枢は完全にわたくしの手中にある。
「新しい旗を掲げましょう。自由と信頼と実力によって支えられる、新しい国を」
「アデリナ様、万歳!」
声が、空へと舞い上がる。
わたくしは振り返ることなく、前を見据えた。王妃という肩書きはもういらない。これからは、わたくしが、わたくし自身の国を築くのだから。
それから、しばらくして、わたくしたちは新たな国を築きました。
その名も──セレスティア自由公国。
公平な法と実力主義、そしてわたくしが掲げた「誇りある勤勉」の理念に、多くの人々が心を打たれました。王都から、他国から、あるいは何の後ろ盾も持たぬ庶民まで、わたくしたちの元に集まってきました。
税は軽く、努力は正当に報われ、貴族と庶民の間にあるべき礼儀と共に、不要な壁は取り払われた。文化は新たに形づくられ、交易は自由の中で力強く広がり、セレスティアはわずか三年で、かつての王国を経済規模で追い抜くに至ったのです。
一方、王国は──見る影もありませんでした。
人材は流出し、税収は激減。統治は機能せず、残された貴族たちは内輪揉めを始め、周辺諸国からの信頼も失われたと聞いています。豪奢だった王宮は荒れ果て、庭には雑草が生い茂り、今では城壁にすらひびが入っているとか。
そして──その日がやってきたのです。
冷たい雨が降る朝。城門の前に、みすぼらしい姿の男女が現れました。
かつての王、ディラン。そしてその愛人、エルミナでした。
「ア、アデリナ……!」
ディランが泥まみれのまま、わたくしの前にひざをつきました。腫れた目、濡れた服、震える手……威厳のかけらもない。いや、それどころか、まるで哀れな浮浪者のよう。
「お願いだ……頼む、アデリナ……! お前がいないと、もう国は……国じゃないんだ……!」
「アデリナ様……っ、わたくしも……反省しておりますの……! どうか……お赦しを……! お赦しくださいませぇ……!」
わたくしは、彼らが来ると報せを受けていたものの、まさかここまで惨めな様子とは思いもよりませんでした。
「すまなかった! 本当にすまなかったんだ! あのときは……ほんの出来心で……!」
泥を這うようにして、ディランはわたくしの裾に手を伸ばしました。兵士が止めようとするのを押しのけてまで、泥に手を突っ込み、すがるようにして。
「お願いだ……どうか……国を、立て直してくれ……お前しか……もう、いないんだ……!」
「アデリナ様……! あのときのこと、ほんの冗談だったんですのよ……! 正妃だなんて……わたくしには荷が重すぎましたの……だから、だから今度こそ、お側にいさせて……何でもいたしますから……!」
二人は、泥の上に額をつけて泣いていました。雨が顔を濡らし、涙と泥が混ざり合い、もはや誰かも分からぬほどの有様で。
「……お願いだ、アデリナ……! もう一度、あのときに戻れたなら……絶対に、お前を手放したりしなかった……!」
ディランが泣きながら、まるで赤子のように、わたくしの裾を握り締めます。
「全部……全部、エルミナが焚きつけたんだ……! こいつが、お前のことを悪く言って……! 俺は、騙されただけで……!」
「ディラン様っ!? あなたも、わたくしが正妃になることを望んでいたではありませんの! どうして今さら……!」
なんと哀れな……互いに責任を擦り付け合い、泥にまみれて取り乱すその姿。かつて“王”と“寵姫”だったはずの二人のなれの果てが、今、わたくしの足元に転がっている。
わたくしは静かに、ため息をつきました。
「……まだ、分かりませんの?」
わたくしの声は、どこまでも静かで、どこまでも冷たく響きました。
「あなた方が手放したのは、わたくし一人ではありません。忠誠も、信頼も、あの国の未来も……あなた方自身の手で踏みにじったのです」
「で、でも……!」
「泣いて縋れば許されると、まだ思っているのですか? 浅ましいですわ。いいえ……滑稽ですらあります」
「アデリナ……! アデリナァァ……!」
「見捨てないでぇええ……わたくし……わたくしぃい……!」
わたくしはもう、彼らを見る気も失せていました。哀れすぎて、そして……醜すぎて。
振り返ることなく、わたくしは一言、命じました。
「二人を、門の外へ」
兵たちが、無言で二人を引きずっていきました。ディランは足をばたつかせて叫び、エルミナは爪を立てて地面を引っかき、泥と雨を巻き上げて泣き喚いていました。
それでも、誰一人として同情する者はいませんでした。
民も兵も、ただ静かに見つめていたのです。
──かつての王と寵姫の末路を。
──そして、わたくし、アデリナ・エルレインが築いた国と信頼が、どれほど揺るぎないものかを。
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