第1章第5節
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湊は、持っていたスマホを後ろに放り投げた。背後でガチャンと壊れる音がする。何の救いも無く物語は終わってしまった。せめて希望の一つでも残っていれば、まだ湊の気持ちも前向きになれたかもしれない。誰も救われない。誰も報われない。湊が最後まで肩入れしていたアルダスさえ。
湊は白衣を着たまま、社屋の屋上にある塔屋の上にいた。昼間の賑わいとは裏腹に、夕暮れはひどく静かで、風の音だけが耳を掠めてゆく。端まで歩みを進めて身を乗り出し、下を覗き込む。二階建てなのに、意外と地面までの距離が遠い。打ちどころが悪ければ死んでしまうと思った。
帰りがけの社員たちが湊に気づき、見上げているのが見える。どんな表情をしているのか、影になってよく見えない。もしかしたら、昨日の噂が広まって蔑んでいるのかもしれなかった。
急に「春原!」と、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。でっぷりと太った体を揺らして駆け寄ってきたのは石動だった。影になっても体型ですぐに分かる。外回りから帰ってきたばかりなのだろう。何か必死になって叫んでいるが、風の音が邪魔して湊には聞き取れない。
いつもタイミングの悪い人だ。女と夜遊びすることしか頭にないくせに、どうしてこんなときだけ必死になっているのだろう。そんなこと、湊にとってはもうどうでもよかった。
湊は次第に増えてゆく人混みの中に伊堂寺の姿を探す。たとえ影になっても、背高のっぽの伊堂寺なら見つけられるはず。そう期待したが、どこにも見当たらなかった。おそらく研究室にいて気づいていないか、湊がいなくなって清々しているのだろう。
もう、それで十分だった。湊はゆっくりと体を傾ける。足元が消えて、世界が反転した。体が地面に向かって引っ張られる。風が耳元で唸り、目が開いているのか閉じているのかさえ分からない。下から悲鳴が沸いてくる。
湊は「ああ、僕は今、本当にいなくなるんだな」と覚悟した。そして、「……バカだな」と自分の行いを初めて悔やんだ。
次の瞬間、全身にこれまで経験したことのない痛みが走る。「春原、春原!」と誰かが呼ぶ声が遠のいてゆく。湊の意識はそこで途切れてしまった。