第12章第3節
-3-
湊がダブラーの店で働き始めてから一ヶ月が経った。
今では、まるで物語の中のクォークのように、湊はダブラーの右腕として店を支えていた。薬や香の調合にも慣れ、常連客との会話にも自然と笑顔がこぼれる。そんなある日、店の扉を叩いたのは、王室の紋章を胸に掲げた従者だった。
その顔を見た瞬間、湊は小さく息を呑んだ。
「クォーク殿ではないですか……! まさか、こちらにいらしたとは」
「お久しぶりです。今日はいかがなされましたか?」
王室からの依頼であれば、アルダスの店に向かうはずだ。首をかしげる湊の背後から、奥の作業場にいたダブラーが姿を見せる。
「クォーク殿がいなくなってから、アルダス殿の店は急に不安定になりまして……納期の遅延、調合ミスによる苦情、つい先日は弟子が客を火傷させたとかで訴訟沙汰に……」
従者の声には困惑が滲んでいた。
「アルダス殿は、気丈に振る舞っておられましたが……あれは無理をしている姿でした。やはり、あの店にはクォーク殿が必要だったのです」
湊は言葉を失い、ただ胸がきゅっと締めつけられるのを感じた。脳裏に浮かんだのは、背中を向けて黙々と作業していたアルダスの横顔だった。
「……で、どうして俺のところに来たんだ?」
ダブラーが腕を組みながら、やや不機嫌そうに尋ねると、従者は頭を下げる。
「ダブラー殿の名声を頼って、今回の依頼をお願いしたく……」
「そうか。だが、こいつは渡さねぇぞ」
そう言って、ダブラーは当然のように湊の腰を抱き寄せた。従者は目を丸くしながらも、思わず笑みを漏らす。
「滅相もございません。クォーク殿にまたお会いできただけでも、光栄なことです」
「なぁ、あのレシピ、ぜんぶ覚えてるんだろ?」
ダブラーが視線を向けると、湊は小さく頷いた。あの頃、アルダスの代わりに調合した薬も、香りも、すべてのレシピが記憶に残っている。
「じゃあ、こっちで引き受けてやるよ。注文書、後でまとめて持って来い」
「感謝いたします。助かりました」
従者は何度も礼を述べ、店を後にした。
湊はその背中を見送りながら、胸の中に奇妙な痛みを感じていた。アルダスの店が、本当に物語のとおり没落しつつある――それが、ただ苦しかった。
「大丈夫か?」
ダブラーがそっと声をかけてくる。
「……ええ。僕たちで、ちゃんと仕事をこなしましょう」
「そうだな。俺たちなら、どんな依頼だってやれるさ」
言葉のとおり、湊は力強く頷いた。ダブラーの腕が肩にまわり、二人は並んで奥の作業場へと戻っていった。
ふと湊は立ち止まり、自らダブラーに唇を重ねた。驚くダブラーの瞳を見つめながら、湊はそっと囁く。
「……あなたがいてくださるなら、僕は迷いません」
その囁きに応えるように、ダブラーは湊を強く引き寄せた。
「任せろ。おまえがもう二度と、迷わねぇようにしてやる」
その腕には、確かなぬくもりと、誓いがこめられていた。




