第12章第2節
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湊は木箱を胸に抱え、ダブラーの店の中で立ち尽くしていた。箱の中には、これまで家で使ってきた調合器具がすべて収められている。乳鉢、試験管、ビーカー、火皿……どれも湊の手に馴染んだ、大切な相棒たちだった。
「さあ、今日からおまえの居場所はここだ」
奥の作業場からダブラーの声が響く。湊は小さく返事をして、木箱を抱え直しながら歩き出した。
「重くねぇか?」
ダブラーがすかさず近寄って木箱を軽々と受け取る。その自然な優しさに、湊は胸の奥が温かくなるのを感じた。
作業場の奥には、真新しい布がかけられたテーブルが用意されていた。その傍らには、小さな棚もある。すべて、湊のためにダブラーが整えてくれたのだ。
「ここが、おまえの仕事場だ。好きなように並べていいぞ」
湊は頷き、木箱を開ける。器具を一つずつ丁寧に並べながら、自分はまたゼロから始めるのだと、静かに心に刻んだ。
最後に取り出したのは天秤だった。あの日、ダブラーから受け取った、どこか過去の自分と未来を繋ぐような道具。湊はそっとダブラーに差し出す。
「やっと、この店に戻って来れましたね」
「ああ、おまえと一緒にな。これで釣り合いが取れるだろう」
ダブラーは少し照れくさそうに鼻を鳴らした。二人の視線がふと重なり、思わず笑い合う。やがてダブラーが唇を重ねてきた。長い、確かな口づけ。唇が離れると、湊は軽く眉をひそめる。
「お客様に見られますよ」
「構わねぇさ」
ダブラーが笑う。窓の向こうから差し込む陽射しは、穏やかで優しかった。
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午後になると、ぽつぽつと客が訪れ始めた。湊はダブラーと並んでカウンターに立ち、一人ひとりを丁寧に迎える。ダブラーの接客は、まるで熟練の商人のようだった。話の腰を折らずに聞き取り、必要な薬を即座に判断し、時には言葉で客を諭す。
「よぅ、今日はどうしたんだ?」
「いや、女房がさ。寝つきが悪くてな……よく眠れる薬、あるか?」
湊が一歩引いて様子を窺う中、ダブラーは棚から薄青色の瓶を手に取る。
「まずはこれを試してみな。体を緩めて眠りやすくするんだ」
「でもよ。女房はすぐにでも眠りたいって……」
男は不安げに眉をひそめる。
「強めの睡眠薬ってのもあるが、初手からはおすすめしねぇな。まずは自然な眠りに戻してやらねぇと。どうしても効かねぇ時は、俺が調合してやるからよ」
その言葉に、客は安心したように頷き、礼を言って薬を買っていった。
次に現れたのは、頬を染めた若い娘だった。彼女はカウンターに両手を置いて、小声で打ち明ける。
「あの、好きな人がいて……振り向いてもらうには、どうしたら……」
ダブラーはニヤリと笑い、小皿に香りの蝋をひとすくい盛る。
「なら、こいつが効くぜ。ひと嗅ぎしたら、そいつはおめえさんに首ったけだ」
「……紅棘草、ですね? でも、この香り……少し違う?」
「おぉ、鋭いな。そこに夜香草を混ぜてある。俺様のオリジナルブレンドってやつだ」
娘が笑顔で香りを受け取って帰っていったあと、湊はその小皿を見つめたまま呟いた。
「……こんな繊細な香りも作れるなんて……」
思わず目を丸くしている湊に、ダブラーがいたずらっぽく顔を寄せる。
「なに、惚けた顔してやがる」
「……っ、あの……尊敬したんです。僕、全然まだまだだなって」
「おまえは十分すげぇさ。俺様が惚れ込んだんだぞ?」
そう言うと、ダブラーはぐいと湊の肩を引き寄せ、優しく唇を重ねた。一つ、二つ、口づけが続いて、湊の頬が染まっていく。
「次の客が来たら、ちゃんと離れてくださいね……」
湊の抗議は、どこか嬉しげで、甘えたような声音だった。




