第12章第1節
-1-
閉店後の店内は、静寂に包まれていた。
湊は来客用のソファに腰を下ろしていた。重厚な皮張りのソファは、店が王室御用達となった記念にミレイユの勧めで購入したものだ。普段は高貴な客をもてなすための場所。そこに座る自分が、いまや“よそ者”の立場であることに、湊はわずかな戸惑いを覚えていた。
向かいのソファにはアルダスが座り、腕を組んで視線を逸らしている。その横に立つミレイユの表情は険しく、さらにその隣で、エリックはどこか勝ち誇ったような目で湊を見下ろしていた。
「それで、話とは何だ」
沈黙を破ったのはアルダスだった。苛立ちを隠そうともしない声。
湊は深く息を吸い込んでから言った。
「この店を、辞めさせていただきたいのです」
空気が凍りついたような沈黙が広がる。
「ふん。いつかはそうなると思っていたよ。……ダブラーの店に行くんだな?」
アルダスの声には、怒りとも諦めともつかない感情が滲んでいた。湊は小さく頷く。
「勝手にしろ。……裏切り者が」
アルダスは吐き捨てるように言い残し、勢いよく立ち上がると作業場へと消えていった。その背中を追うように、エリックも視線すらよこさずに去っていく。
残されたミレイユは、ため息をつきながら湊の隣に腰を下ろした。
「本当に……行ってしまわれるのですね」
その声はどこか寂しげで、左手は湊の袖口をそっと掴んでいた。薬指には、アルダスから贈られた指輪が輝いている。もちろん、それが湊の手によって作られたものだとは知らない。
「あなたがいなくても……この店はやっていけるのかしら」
「大丈夫です。ミレイユ様がいらっしゃいますし、エリックも立派に育っています」
湊がそう返しても、ミレイユは黙ったまま自分の腹に手を添える。まだ膨らみ始めたばかりの命。彼女の不安は未来へと続いていた。
「……アルダス様に手柄を横取りされたのが、面白くなかったのですか?」
彼女の問いに、湊はすぐ首を振る。
「違います。ただ……もう、僕はアルダス様に必要とされていない気がして……」
それは半分本音で、半分は嘘だった。必要としなくなったのは、自分の方かもしれない。
作業場からアルダスに呼ばれたミレイユが立ち去ったあと、湊も静かに席を立った。扉へ向かう途中で、入れ替わりに現れたエリックが声をかけてくる。
「この店にいた方が、あなたのためにも良かったと思いますけどね」
「僕がいない方が、君も伸び伸びできるだろ」
「……せいぜい後悔しないように。もう戻る場所なんて、ありませんから」
湊はその挑発的な言葉に笑みを浮かべただけで、何も言い返さなかった。
店を出ると、冷えた夜風が頬を撫でた。城壁のそばではダブラーが腕を組んで待っている。その姿を見た瞬間、湊の胸にぬくもりが灯った。
「遅いじゃねぇか。心配で、今にも乗り込もうとしたんだぞ」
「大丈夫。アルダス様は……辞めていいと言ってくださいました」
湊の言葉に、ダブラーは目を細め、そっと手を差し出す。
「辛かっただろ?」
「……いいえ。もう、すっきりしました」
本当は少しだけ泣きたかった。でも、今は隣に心から愛する人がいる。
「僕はあなたと一緒に生きるって、決めたんです」
繋がれた手に力が込められる。
「……ったく、可愛いこと言いやがって。そういうの、我慢できなくなるだろ」
歩く速度がほんの少し早まる。湊はますますダブラーが愛おしくなった。




