第9章第7節
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翌日、シルヴィ王女の結婚式は、城の向かいにある大聖堂で行われた。白い大理石の柱。ステンドグラスからは光が差し込み、ちょうど花嫁が通る道をまっすぐに照らしていた。
湊やアルダス、ミレイユ、ダブラーは香を作った功労者として招待されていたが、来賓の貴族たちの中で、普段着のローブやシャツ、ズボン、ドレスを纏った彼らは浮いた存在だった。
大聖堂の中では湊が作ったバニラの香りが立ち込めている。シルヴィ王女は涙を流して喜んでくれたが、湊にとっては偽りの香りにしか感じられなかった。寝不足が祟ったこともあり、こっそりと大聖堂を抜け出す。アルダスやミレイユがいるのだから、湊がいなくなったって構わないだろう。
中央広場のベンチで一息つく。やはり自分のような平民には、この場所が落ち着く。湊は大きく欠伸をした。
「よっ、ご苦労さん」
と声がして顔を上げると、ダブラーが目の前に立っていた。
「王室の結婚式を抜け出すなんて感心しねぇぞ」
「ダブラー様だって」
二人は顔を見合わせて笑った。そのままダブラーは、湊の隣に腰を下ろす。
「勝負には負けちまったな」
「僕はダブラー様の香りが好きでしたよ」
「おぉ、嬉しいことを言ってくれるねぇ」
ダブラーに強く抱きしめられて、湊の息が止まりそうになる。そのローブにはダブラーが作ったバニラのような匂いが染みついていた。
「まぁ、俺はおまえに負けたんだ。悔しくなんかねぇさ」
その言葉に湊はハッとしてダブラーを見る。
「俺が気づかねぇとでも思ったか?」
何を考えているのか湊にはまったく読めなかった。ダブラーはニヤニヤしながら、湊の頬を撫でる。
「これで、ますます欲しくなっちまったな」
ダブラーの顔が近づく。皆が見てる前で何をしようとするのか。それでも湊は逃げ出すことができなかった。
「あら、ダブラーじゃないの。こんなところで何をしてるのさ」
振り向くと、いつもの飲み屋の女が立っていた。
「……ったく、おめぇはいつもタイミングの悪い時に現れるな」
「そりゃ、あんたには店に来てほしいもの。当然じゃないか」
ダブラーは女を面倒臭そうに追っ払う。同時に湊もベンチから立ち上がっていた。
「おい、どこへ行くんだよ」
息を大きく吸い込んで、まっすぐダブラーを見つめる。そして
「僕は、ダブラー様のような女好きとは一緒に働けないのです」
と言い切った。ダブラーはひどく傷ついたような顔をしたが、湊は踵を返して走り出していた。
「待て。待てったら!」
ダブラーに追いつかれないように、角を次々と曲がる。気がつくと、まったく知らない裏通りを走っていた。密集した建物の影になって、昼間なのに薄暗い。
ずっと心に引っ掛かっていたことを、ついに言ってしまった。そう、ダブラーは女好きなのだ。自分の気持ちなんか分かるはずがない。一緒に働いたところで、伊堂寺と同様に本性を知って気持ち悪がるだけだろう。
きっとダブラーは今頃怒っているだろうし、湊のことを変な奴だと思っているに違いない。それで諦めてくれるのならば本望だった。
酒の匂いが鼻腔を擽る。どうやら、この辺りは酒場街のようだった。ふと、壁にもたれて立つ男に目が止まる。白髪頭で無精ひげを生やした小太りの男。昼間から飲んだくれていたのか、片手には酒瓶を持っている。終始落ち着きなく、目線を動かしていた。
不意に湊と目が合う。男は粘っこい眼差しで見つめてきた。どこか見透かそうとする目つき。それは、湊がハッテン場で何回も見てきたものだった。
男は舌なめずりをしながら湊を手招きする。もう、どれくらい男に抱かれていなかっただろうか。この世界に転生してからは一回も無かった。吸い寄せられるように体が動いてゆく。無意識に男が差し伸べた手を取りそうになった。
「クォーク!」
呼び声が辺りに響いて振り返ると、どうやって追いついたのか、ダブラーが息を切らして立っていた。
このまま男の手を取ったら、ダブラーは失望してくれるだろうか。けれども、湊はそんなダブラーを見たくはなかった。それは自分のためでもあるし、ダブラーのためでもあった。
男に背を向けて走り出す。もう一度、名前を呼ぶ声が聞こえたが、湊は振り向かずに走り続けた。ようやく表通りに出たが、もうダブラーは追って来なかった。




