第9章第6節
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いよいよ、国王に祝福の香を提出するまで残り三日となった。ダブラーはすでに準備ができたと言う。一方のアルダスも量産体制に入ったものの、その香りは求められているものとは全然違っていた。それでも、アルダスはこれが完成品だと言わんばかりに調合を続ける。
湊は半ば諦めかけていたが、ミレイユは違っていた。カウンターでこっそり耳打ちする。
「あの香りを作ってくださいませんか?」
「しかし、アルダス様はいかがなされるのですか?」
ミレイユは首を横に振る。
「このままではアルダス様が負けるのは目に見えています。王室の御用達に選ばれる絶好の機会なのに、みすみす見逃すわけにはいきませんわ」
ミレイユの目は至って真剣だった。思わず湊は「アルダス様を愛していらっしゃるのですよね?」と問いかけそうになった。
「この三日間で同じ量を作っていただけますか。そして、国王に献上する直前で差し替えるのです」
清楚で可憐でありながら、その内側はなかなかの腹黒で策略家でもあった。湊は背筋が冷たくなるのを感じながら、ただ頷くしかなかった。
家に帰って、レシピを読み返しながら調合を始める。どんなに頑張っても、香が完成するには朝までかかってしまう。湊はクォークの母親に咎められながらも、調合を続けるのだった。
そして三日後、いよいよ国王に献上する日がやってきた。初めて入る城の中。謁見の間は天井が高く、金の文様が浮き彫りになった壁に囲まれていた。赤い絨毯が一直線に玉座まで伸び、その両脇には王妃、シルヴィ王女、重臣たちが控えている。
湊たちは決められた位置まで進むと、静かに膝まずいた。香の差し出し方すら、すべてが作法通りでなければならない。寝不足の湊は、国王の面前だというのに欠伸が出そうだったが、頬の内側を噛みしめて、どうにか意識を保つ。
アルダスは国王の前で膝まずき、祝福の香を差し出した。それを従者たちが粛々と受け取る。計画どおりならば、すでに中身は差し代わっているはずだった。隣のミレイユをチラリと見ると、極めて平然とした顔をしている。きっと計画はうまく行っているのだろう。
ダブラーも祝福の香を差し出す。気負いもせず、酒場に入るような気軽さだ。けれども、その顔には確かな自信が宿っている。一瞬、湊と目が合うと、勝ち誇ったような顔をした。
国王、王妃、シルヴィ女王がいる前で、香に火がつけられる。まずはダブラーからだ。蝋が溶けて豊かな香りが広がる。この前と同じ、蕩けるような甘い香り。湊だけでなく、国王や王妃、その場に居合わせた従者や侍女たちもうっとりとした顔をした。ただ、王女だけが首をかしげていた。
「確かに良い匂いですが、私の乳母の香りとは違いますわ」
次に、アルダスの香に火がつけられる。湊が作ったバニラの香りが広がる。計画がうまく行ったことに安堵すると共に、皆がどのように反応するのか目で追った。
国王と王妃は先ほどと同じく満足げな顔をする。
「こちらの方が香りが均一で安定しているような」
という声も聞こえてきた。
アルダスは怪訝そうな表情をするが、ミレイユに「素晴らしいですわ」と言われて、嬉しそうに顔を綻ばせた。ダブラーは信じられないと言わんばかりに、唖然とした顔をする。ピクピク動くこめかみが彼の怒りを表していた。
そして、湊がシルヴィ王女に視線を向けると、彼女はボロボロと大粒の涙を流していた。
「この香りですわ。懐かしい乳母の香り……」
壇上から下りると、シルヴィ王女はアルダスの手を取った。
「ありがとうございます。あなたの作った香を婚礼に使わせていただきますわ」
アルダスが勝つのは予想外だったらしい。従者や侍女たちからどよめきが巻き起こる。アルダスが照れ臭そうに拍手喝采を受け止める中、ダブラーだけが面白くなさそうな顔をしていた。
湊も気まずくて顔を上げられない。本当の勝者は誰の力も借りずに、あの香りを作り上げたダブラーなのだ。アルダスとミレイユが子どものように喜びを分かち合う中、湊は一人だけ心が冷えてゆくのを感じた。




