第9章第5節
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その夜、湊はダブラーの店にいた。帰り道で捕まり、ここまで連れて来られたのだ。奥の作業場に通され、椅子に座らされる。ダブラーは湊に、蝋が盛られた皿を差し出した。湊がぼんやり見てると「嗅いでみろよ」と促してくる。
匂いを嗅いでみると、バニラのような香りがした。厳密には違うが、蕩けるような甘い香りに湊は目を閉じて、うっとりしてしまう。初めて嗅いだのに、どこか懐かしい匂い。それは湊の郷愁を呼び覚ました。今頃、みんなどうしているのだろう。
「その様子だと気に入ってくれたみたいだな。嬉しいぜ」
ダブラーは照れ臭そうに鼻を擦る。
「おまえが喜んでくれると思って作ったんだ」
「僕のため?……王女のためではないのですか」
湊は首をかしげる。
「そんな、よく分からない奴のために作ったってピンと来ねぇだろ。誰を喜ばせたいか、そう考えたらあっという間に出来ちまったぜ」
ダブラーの言葉に、ずっと沈んでいた気持ちが明るくなる。湊は店の窓から見てしまった。仲直りしたアルダスとミレイユが夢中で口づけを交わしていたのを。あの情熱的な口づけが全てを物語っていた。仲直りするよう促したのは自分だったのに、現実を目の当たりにすると胸が痛んでしまう。
そんな気持ちを察したのか、ダブラーは湊の手を取る。
「クォーク。もし俺の香りが選ばれたら、今度こそ俺の子分になって欲しい」
湊が何も言えずに黙っていると
「分かってる。アルダスのそばにいたいんだろ。でも、おまえ幸せか?」
と問いかけてきた。
湊は物語のアルダスが好きだった。真面目で愚直で誠実で。だから、この世界に転生した時、助けてあげて物語を書き換えようと決意した。けれども、アルダスは頑固でプライドが高く、やせ我慢して湊の助けを撥ね退けてしまう。そして、ミレイユを愛していて湊には目もくれようとしなかった。
物語のダブラーは、ずる賢くて皮肉屋だけど、湊には優しい。そばにいると安心するし、素直に自分の実力を褒めてくれるのは嬉しかった。それでも……
「僕はアルダス様が勝つと信じています」
湊はそう答えた。ダブラーは一瞬がっかりしたが、すぐにいつもの皮肉めいた笑みを浮かべた。
「こりゃ面白れぇや。あいつがどこまで食い下がれるか見てみようじゃねぇか」
そう言って高らかに笑う。湊はただ俯くしかなかった。




