第9章第4節
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ダブラーが酒樽を漁っているという話は、酒造りの職人を通してアルダスの店でも知るところとなった。おそらくダブラーは、湊の言葉をヒントにバニラの香りを作ろうとしているのだろう。
一方のアルダスはまったく見当がつかないようで、日に日に苛立ちを募らせている。今では調合中に声をかけるのさえ憚られた。それでも、ミレイユは「まだ、日にちがありますわ」と励ましていた。
しかし、ついに婚礼の一週間前になってしまった。アルダスの香りは一向に出来上がる気配がない。こんな時、自分の香りを使ってくれたら、と湊は心の中で懇願した。物語の中でクォークを頼ったダブラーのように。
ミレイユは思うところがあったのだろう。意を決したようにアルダスへ進言した。
「アルダス様。差し出がましいようですが、クォークが作った香りを使われたらいかがですか?」
「そんなことできるわけがないだろ」
「でも、日にちがありませんわ」
「君に俺の何が分かると言うのだ」
アルダスはテーブルを叩いて立ち上がる。あまりの剣幕に湊は二人の間に割って入ろうとした。けれども、それより早くミレイユが店を飛び出してしまう。
「ミレイユ様!」
と湊は声をかけるが、彼女は振り向かずに行ってしまった。アルダスは顔を両手で覆って、力なく椅子に腰かける。
「……みっともないだろ」
「アルダス様……」
「ミレイユの言うことも分からないわけではない。けれども、私のプライドが許さないのだ。つまらないプライドだろ?」
「そんなことはありません!」
そう言って湊はアルダスに寄り添う。痩せた体から伝わる体温は、湊よりも低かった。
「アルダス様ならきっと出来ると、僕は信じています。だからこそ今日までついてきたのですから」
精一杯の励まし。だが、アルダスには届かなかったようだ。
「ミレイユ、ごめんよ……」
と言うと、アルダスは湊の目も憚らず泣き出してしまった。湊は自分の無力さに唇を咬む。
「ミレイユ様を探してきますね」
そう言って店を出た。
ミレイユはすぐに見つかった。中央広場のベンチで、顔を両手で覆って泣いていた。通りがかる人が心配そうに横目でうかがう。湊は静かに近づき、ミレイユの隣に腰を下ろした。
「……僕も、アルダス様に怒鳴られたこと、何回もあるんです」
ミレイユがゆっくりと顔を上げた。目は赤く腫れている。
「そのたびに自分が情けなくて……それでも、あの人に認められたくて、ずっとついてきました」
「クォーク……」
「さっき、あの人、泣いていました」
「え……?」
ミレイユが驚いた顔をする。
「自分のプライドのせいで、あなたを傷つけたことを……“ごめんよ”って、僕の目の前で」
ミレイユの大きく開かれた目から、大粒の涙がこぼれだす。
「だから、戻ってきてほしいとは言いません。でも──」
湊は空を見上げた。
「アルダス様は、あなたのことをとても大切に思っています。それだけは、僕が保証しますよ」
その言葉を聞くなり、ミレイユはベンチから立ち上がって駆け出していた。一人残された湊は「バカだな……」と誰に言うわけでもなく呟いた。




