第9章第3節
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その日の帰り道、湊が肩を落としてトボトボと歩いていると、急に後ろから誰かに抱きつかれた。振り向かなくても酒の匂いで誰だか分かる。
「よっ、元気なさそうじゃねぇか。何があったんだ?」
ダブラーが瞳を覗き込んでくる。湊は笑顔を作る元気すらなかった。
「その様子じゃ、アルダスに怒られたみたいだな。あいつ、偉そうに」
とダブラーは舌打ちする。そのまま、湊の手を掴んで歩き始めた。
「ダブラー様、どこへ……」
「こんな時は酒で憂さ晴らしすりゃいいんだ」
そう言って、グイグイと前へ進んでいく。湊はその手を振りほどくことができず、ただ引っ張られるがままだった。ダブラーが自分の味方をしてくれたことが嬉しかったから。
ダブラーの行きつけの店は、酔客たちで賑わっていた。ダブラーはカウンターの端に二人分の座席を見つけ、一つに湊を座らせる。ダブラーも隣に座った。間隔が狭いせいか、自然とダブラーの体に触れてしまうほど距離が近い。
「そういや、酒は飲めないんだったな」
ダブラーはマスターを呼びつける。そして
「俺は樽酒の水割り。こいつはミルクに樽酒を垂らしてくれ」
とオーダーした。マスターは湊を一瞥して「ミルクですね」とオーダーを繰り返した。まだ酒を飲んでいないというのに、湊の顔が赤くなる。すぐに目の前に、ミルクと樽酒が入ったグラスが並べられた。
「じゃあ、今日はおまえに乾杯だ」
ダブラーに促されて、グラスをかち合わせる。ミルクに口をつけると、甘味の中に仄かな苦みが感じられた。こんなところをアルダスやミレイユに見られたら、クビになってしまうかもしれない。けれども、湊はここにいることで救われていた。
ダブラーは樽酒を一息で飲み干す。すぐに二杯目をマスターに頼んだ。
「飲むのが早いです。悪酔いしますよ」
と湊は、うわべだけの心配をする。だが、ダブラーは「ありがとうよ」と言って、湊の肩を抱いた。そのまま二杯目もグイッと飲み干してしまう。湊はやっと二口つけたくらいだった。いつも、こんなに早いピッチでダブラーが飲んでいるのか心配になる。
「今日はおまえの誤解を解きてぇんだ」
「誤解?」
自分は何を誤解しているというのだろう。湊はダブラーをしばし見つめるが、何も思い浮かばなかった。
ダブラーが豪快な見た目に反して実は繊細なところ? それなら仕事ぶりや湊への気遣いで分かっている。
ダブラーは三杯目を呷った。さすがに酔いが回ってきたのか、目がトロンとしている。
「……いや、たいしたことじゃねぇ」
グラスをくるくる回しながら、しばらく何かを言おうと迷っているようだった。
「俺はなぁ、おまえと……」
そこまで言いかけた時
「……あの香りがする」
と急に何かを思い出したような顔をした。
「あの香り?」
と湊が不思議そうな顔をすると、自分のグラスを湊の鼻先に持ってきた。
確かに、微かではあるがバニラと似た香りが漂っている。甘くて、どこか懐かしい香り。
「樽の香り……かもしれません」
湊がぽつりと呟くと、ダブラーは一瞬驚いたような顔をした。
「へぇ。酒も飲めないのに詳しいじゃねぇか」
少し笑ったあと、グラスをカウンターに置く。その音が妙に大きく響いた。
「悪ぃ、ちょっと思い出した用事があってな。話の続きは……また今度だ」
立ち上がったダブラーは、そう言い残して足早に店を出ていく。
ぽつんと取り残された湊は、その背中を目で追いながら、さっきの「誤解」という言葉が胸の奥で引っかかっていた。
「……何を言いたかったんだろう」
ミルク入りのグラスを手に取っても、その答えは浮かんでこなかった。
「お連れさん、逃げちゃったね」
マスターが肩をすくめながら伝票を湊に差し出す。仕方なく、湊はダブラーの分も立て替えなければいけなかった。




