表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/69

第1章第3節

-3-


研究所の飲み会は紅一点の澄川を中心に盛り上がった。彼女が酌をするたびに誰もが大げさに喜び、歓声が上がる。その中で湊は一人取り残されたような気分でいた。


課長は何をしているのだろうと、伊堂寺の姿を探す。隅っこの方でタバコを燻らせながら、古株の研究員と話をしていた。相手が面白くなさそうな顔をしているから、おそらく仕事の話をしているのだろう。それが微笑ましかった。


「春原先輩」


不意に声をかけられて振り向くと、澄川が湊に向かって身を屈めていた。片手にはビール瓶を持っている。


「全然飲んでいないじゃないですか」


「お酒は苦手なんだ」


「じゃあ、ジュースにしましょうか」


そう言って澄川は手際よく空のコップとジュースの瓶を手に取る。ジュースを注いで湊へ渡そうとするが、そこに伊堂寺がやってきて焼酎を足してしまった。


「さあ、飲め。澄川が作ってくれたお酒だぞ」


伊堂寺に差し出されたなら拒むわけにはいかない。湊は二人を待たせないように、一気に飲み干した。アルコールの味が口の中に広がり、顔をしかめる。


澄川は何か話したそうだったが、他の研究員に呼ばれて、その場を去ってゆく。代わりに伊堂寺が湊の隣に腰を下ろした。湊はどぎまぎして鼓動が早くなるのを感じだ。それをごまかすように


「いいのですか? 澄川さんと話をしなくて」


と言った。


「いいんだよ。その気になればいつだって話せるんだからな」


確かに課長が呼べば、澄川はきっと駆け寄ってくるだろう。研究室の中で一番偉い人なのだから。


伊堂寺は新たなタバコを咥える。すかさず湊はライターで火をつけ、自分のタバコにも火をつけた。いつものように咳込んでしまう。白い煙が二人を包み、そこだけ別世界のようだった。アルコールのせいか、気分がふわふわしてくる。


「こないだは、ありがとな」


伊堂寺が湊の目を見ずに呟く。


「えっ?」と聞き返して、すぐに先週の喫煙所の出来事だと気づく。二度目のお礼に、湊は胸が熱くなる。


「どうして、俺を庇ってくれたんだ?」


伊堂寺の問いかけに、アルコールで緩んでいた湊の口から本音がこぼれた。


「同じ仲間として許せなかったんです」


「仲間?」


「……僕も女の子には興味が無いですから」


やっと言えた。本当の自分を。想いを寄せている人に。


けれども、伊堂寺は何も言わず、沈黙が流れる。「しまった」と湊が気づいた時にはもう遅かった。


「……おまえ、そういう目で俺を見ていたのか」


呆れたような声が返ってきて伊堂寺を見ると、蔑むような目つきをしていた。


「ち、違うんです」


伊堂寺は引き攣った笑いを浮かべた。


「マジで無理だわ、そういうの」


そう言って伊堂寺は立ち去り、幹事役の研究員に耳打ちする。湊の体から脂汗が出る。一気に酔いが醒めるようだった。


なんて取り返しのつかないことをしてしまったんだ。もう、この会社にはいられないじゃないか。何とかして取り消したいと思ったが、それができるほどの言葉も余裕も湊は持ち合わせていなかった。


再び湊の元へ戻ってきた伊堂寺は、湊が驚くのも構わず、腕を強く引っ張って立ち上がらせた。他の研究員たちはニヤニヤしながら、それを見送る。ただ、澄川だけが心配そうな表情を浮かべているのが見えた。


伊堂寺は湊の腕を引っ張り続けたまま、夜の暗がりの中を歩き続ける。湊が「課長、どこへ行くのですか!」と尋ねても振り向こうとしない。その気になればいつだって逃げられるのに、湊はされるがままだった。逃げたところで、どこにも行く場所がない。それだけだった。


やがて、繁華街から少し外れたところで伊堂寺が足を止める。薄暗いピンク色の看板と辺りに漂う石鹸の匂い。言われなくても、そこが何の店なのか湊には分かった。


伊堂寺はドアを開け、湊を強引に引っ張り入れる。すぐに店のオーナーらしき男性が両手を揉みながらやってきた。


「これは伊堂寺さん、いらっしゃいませ。お連れさんも一緒なんて珍しいですね」


「ああ、俺が支払うからこいつにも女を宛がってやってくれ」


湊の血の気が引いてゆく。


「あの、課長。僕はいいですから……」


と言って逃げようとすると


「研究所にいられなくなってもいいのか?」


と睨みつけてきた。オーナーは事情を察したのだろう。


「では、初めてでも満足できる子を用意しますね」


と奥に消えていった。


待合室に残された湊は、呆然と立ち尽くす。伊堂寺は慣れた様子でソファに深く腰かけ、タバコに火をつけた。


「女を知らねぇから、そんな風にこじらせるんだ」


と吐き捨てるように言う。


……ああ、そうか。僕の気持ちは「こじらせ」なのか。男を好きなことが、そんなふうに言われるなんて……。湊は心底悲しい気持ちになった。


その時、奥から下着姿の女性が現れた。鼻をつく化粧と香水の匂い。「いらっしゃい」と甘えるような声を出して湊の手を取る。


「そいつを男にしてやってくれ」


伊堂寺の言葉に「はーい!」と返事をすると、その女性は少し力をこめて湊の手を引っ張った。こうなったら、もう覚悟を決めるしかない。泣き出したい気持ちをこらえて、湊は部屋に入っていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ