第1章第3節
-3-
研究所の飲み会は紅一点の澄川を中心に盛り上がった。彼女が酌をするたびに誰もが大げさに喜び、歓声が上がる。その中で湊は一人取り残されたような気分でいた。
課長は何をしているのだろうと、伊堂寺の姿を探す。隅っこの方でタバコを燻らせながら、古株の研究員と話をしていた。相手が面白くなさそうな顔をしているから、おそらく仕事の話をしているのだろう。それが微笑ましかった。
「春原先輩」
不意に声をかけられて振り向くと、澄川が湊に向かって身を屈めていた。片手にはビール瓶を持っている。
「全然飲んでいないじゃないですか」
「お酒は苦手なんだ」
「じゃあ、ジュースにしましょうか」
そう言って澄川は手際よく空のコップとジュースの瓶を手に取る。ジュースを注いで湊へ渡そうとするが、そこに伊堂寺がやってきて焼酎を足してしまった。
「さあ、飲め。澄川が作ってくれたお酒だぞ」
伊堂寺に差し出されたなら拒むわけにはいかない。湊は二人を待たせないように、一気に飲み干した。アルコールの味が口の中に広がり、顔をしかめる。
澄川は何か話したそうだったが、他の研究員に呼ばれて、その場を去ってゆく。代わりに伊堂寺が湊の隣に腰を下ろした。湊はどぎまぎして鼓動が早くなるのを感じだ。それをごまかすように
「いいのですか? 澄川さんと話をしなくて」
と言った。
「いいんだよ。その気になればいつだって話せるんだからな」
確かに課長が呼べば、澄川はきっと駆け寄ってくるだろう。研究室の中で一番偉い人なのだから。
伊堂寺は新たなタバコを咥える。すかさず湊はライターで火をつけ、自分のタバコにも火をつけた。いつものように咳込んでしまう。白い煙が二人を包み、そこだけ別世界のようだった。アルコールのせいか、気分がふわふわしてくる。
「こないだは、ありがとな」
伊堂寺が湊の目を見ずに呟く。
「えっ?」と聞き返して、すぐに先週の喫煙所の出来事だと気づく。二度目のお礼に、湊は胸が熱くなる。
「どうして、俺を庇ってくれたんだ?」
伊堂寺の問いかけに、アルコールで緩んでいた湊の口から本音がこぼれた。
「同じ仲間として許せなかったんです」
「仲間?」
「……僕も女の子には興味が無いですから」
やっと言えた。本当の自分を。想いを寄せている人に。
けれども、伊堂寺は何も言わず、沈黙が流れる。「しまった」と湊が気づいた時にはもう遅かった。
「……おまえ、そういう目で俺を見ていたのか」
呆れたような声が返ってきて伊堂寺を見ると、蔑むような目つきをしていた。
「ち、違うんです」
伊堂寺は引き攣った笑いを浮かべた。
「マジで無理だわ、そういうの」
そう言って伊堂寺は立ち去り、幹事役の研究員に耳打ちする。湊の体から脂汗が出る。一気に酔いが醒めるようだった。
なんて取り返しのつかないことをしてしまったんだ。もう、この会社にはいられないじゃないか。何とかして取り消したいと思ったが、それができるほどの言葉も余裕も湊は持ち合わせていなかった。
再び湊の元へ戻ってきた伊堂寺は、湊が驚くのも構わず、腕を強く引っ張って立ち上がらせた。他の研究員たちはニヤニヤしながら、それを見送る。ただ、澄川だけが心配そうな表情を浮かべているのが見えた。
伊堂寺は湊の腕を引っ張り続けたまま、夜の暗がりの中を歩き続ける。湊が「課長、どこへ行くのですか!」と尋ねても振り向こうとしない。その気になればいつだって逃げられるのに、湊はされるがままだった。逃げたところで、どこにも行く場所がない。それだけだった。
やがて、繁華街から少し外れたところで伊堂寺が足を止める。薄暗いピンク色の看板と辺りに漂う石鹸の匂い。言われなくても、そこが何の店なのか湊には分かった。
伊堂寺はドアを開け、湊を強引に引っ張り入れる。すぐに店のオーナーらしき男性が両手を揉みながらやってきた。
「これは伊堂寺さん、いらっしゃいませ。お連れさんも一緒なんて珍しいですね」
「ああ、俺が支払うからこいつにも女を宛がってやってくれ」
湊の血の気が引いてゆく。
「あの、課長。僕はいいですから……」
と言って逃げようとすると
「研究所にいられなくなってもいいのか?」
と睨みつけてきた。オーナーは事情を察したのだろう。
「では、初めてでも満足できる子を用意しますね」
と奥に消えていった。
待合室に残された湊は、呆然と立ち尽くす。伊堂寺は慣れた様子でソファに深く腰かけ、タバコに火をつけた。
「女を知らねぇから、そんな風にこじらせるんだ」
と吐き捨てるように言う。
……ああ、そうか。僕の気持ちは「こじらせ」なのか。男を好きなことが、そんなふうに言われるなんて……。湊は心底悲しい気持ちになった。
その時、奥から下着姿の女性が現れた。鼻をつく化粧と香水の匂い。「いらっしゃい」と甘えるような声を出して湊の手を取る。
「そいつを男にしてやってくれ」
伊堂寺の言葉に「はーい!」と返事をすると、その女性は少し力をこめて湊の手を引っ張った。こうなったら、もう覚悟を決めるしかない。泣き出したい気持ちをこらえて、湊は部屋に入っていった。