第1章第1節
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「おい、春原。タバコを吸いに行くぞ」
課長の伊堂寺に声をかけられて、湊は手に持った試験管をラックに戻した。これから調合を始めようと思っていたのだが、伊堂寺に声をかけられたなら仕方ない。返事をして、湊は白衣のまま伊堂寺の後を追った。
湊は伊堂寺より一歩後を歩く。廊下の突き当たりにある階段を下りて、裏口の横にある喫煙所に入った。伊堂寺はタバコを咥えたまま、顔を湊に向かって突きつける。すかさず湊はポケットからライターを取り出し、タバコに火をつけた。伊堂寺はうまそうに煙を吸い、そして吐き出す。
湊もタバコに火をつけるが、最初の一吸いで咳込んでしまった。伊堂寺に倣ってタバコを吸い始めて二年。未だにタバコの刺激には慣れない。それでも、伊堂寺と一緒に喫煙所へ入るなら、無理にでもタバコを吸えなければいけなかった。
湊がこの会社「石動製薬」に入社してから二年が経つ。地方にある中小の製薬会社で、プライベートブランドのOEM受託製造を専門としている。湊は研究員として採用され、伊堂寺の下で働いていた。
背の高い伊堂寺は、今日も疲れた顔をしている。毎日遅くまで研究室に残っているからだろう。周りからは「仕事バカ」と揶揄されているが、湊はそんな伊堂寺を尊敬していた。
伊堂寺は少し長めのボサボサな髪の毛を無造作にかき上げる。隠れていた耳やうなじが露わになって、湊は見惚れてしまった。
「春原は澄川のことをどう思う?」
今年入社してきた女性社員の苗字が伊堂寺の口からこぼれて、湊は急に現実に戻される。「どう思う」って何を聞かれているのだろう、と逡巡しつつ
「良い子だと思いますよ。真面目で明るくて」
と無難な答えを返した。
「最初は女なんて、と思ったが、研究所が華やいだようだ。野郎たちはみんなやる気を出しているしな」
そう言って伊堂寺は煙をまっすぐに吐き出す。
他の男の研究員たちの反応は分かりやすいものだった。澄川が話しかけるたびに、鼻の下を伸ばしている。それを湊は見苦しいと思った。
「春原は澄川を嫌っていると思ったよ」
「どうしてですか?」
「いつも無関心に振る舞っているからさ」
湊は首をかしげる。そんなあからさまな態度をしていただろうか。だが、無関心なのは伊堂寺も同じだろう。澄川がいつものように甘えた声を出しても、間違っている時は厳しく叱る。そこも尊敬すべきところだった。
「まぁ、歳が近いんだから、もう少し優しくしてやってくれよ。澄川も気にしていたぞ」
「そ、そうですか」
気にされても本当に関心が無いのだから仲良くするつもりはない。湊が好きなのは同じ男なのだから。そう、伊堂寺のような。
その時、喫煙所の扉が開いて、でっぷりと太った男が入ってきた。
「社長……」
伊堂寺の呼びかけにその男はガハハと大声で笑った。
「よぅ。伊堂寺と春原じゃねぇか。二人で油売ってんのか」
ぬめりのあるドスの効いた声。この「石動製薬」の二代目社長、石動直哉である。
「俺も仲間に入れてくれよ」
とポケットからタバコを取り出し、自分のライターで火をつける。伊堂寺は面倒臭そうに顔をしかめた。湊もあえて顔が視界に入らないように背中を向ける。
「春原、今日もきれいな顔してるな」
そう言って、石動は湊の瞳を覗き込む。吐息が酒臭くて、湊は思わず顔をしかめた。
「社長、また遅くまで飲んでいらしたのですか?」
入社三年目の平社員に過ぎないのに、湊はつい軽口を叩いてしまう。それを石動は笑って受け流した。
「相変わらず、おめぇは可愛くねぇな。社長には付き合いってもんがあるんだよ」
石動は大きくせり出た腹をポンッと叩き、弛んだ顎をぐいっと撫でる。伊堂寺は何も言わず、タバコを燻らせるだけだった。
石動が社長に就任したのは、今年の四月である。それまでは人事部長だった。湊も面接の時に、蛇のごとく舐めるような目つきでじろじろ見られ、それからずっと苦手意識を持っている。
他の社員からの評判も散々だった。典型的なダメ息子だの、先代がいたから社長になれただの、誰もが面と向かって言わないが陰口を叩いていた。それでも、石動が近づくと自然と道を開けて頭を下げる。社長相手に突っかかるなんて湊くらいだった。
「社長もそろそろ身を固めた方が良いんじゃないですか。そうしたら夜遊びも治まりますよ」
伊堂寺が吐き捨てるように言う。
「四十になって独身のおめぇさんに言われたかねぇよ。……それともあれか? 女に興味が無ぇとか」
「やめてください!」
石動の言葉に湊が声を上げる。喫煙所の中で響き渡るほどの大声に思わず湊は口を押さえた。
「……伊堂寺課長はそんな人ではありません」
と、小さな声で続ける。湊の剣幕に石動は驚き、いじけた顔つきをした。
「やめるんだ、春原。社長だぞ」
と伊堂寺に諫められて、湊は「失礼しました」と頭を下げる。それでも内心では憤っていた。「社長はいつも女の影をちらつかせているからって」と。
気まずい空気が流れる。伊堂寺は新たなタバコを咥え、湊が火をつけた。石動も新たなタバコを咥え、湊に火を強請る。
「そう言えば、社長はなぜ澄川を採用したのですが?」
急に伊堂寺が切り出した。
「そりゃ、うちの会社は女性の研究員が少ねぇじゃないか。これからの時代は女性の感性も必要だろ?」
そう言って石動は湊に同意を求める。だが、湊はピンと来なかった。確かに澄川は新入社員にしては仕事ができてアイデアも豊富な女性だが、彼女にでれでれしている他の男たちを見ていると、本当に入社させるべきだったのか疑わしい。「女好きな社長らしい考えだ」と湊は内心軽蔑した。
やがて、伊堂寺はタバコをもみ消し、湊もまだ吸いかけのタバコをもみ消して後に続く。その背中に石動が
「なんだ、もう行くのか」
と声をかけたが、湊は振り向かずに喫煙所の扉を閉めた。
廊下で伊堂寺は一瞬立ち止まって振り向く。そして湊に向かって
「さっきはありがとうな」
と笑みを浮かべながら言った。湊はその言葉に顔を綻ばせる。やっぱりこの人が好きだ。あらためてそう思うのだった。