第3章第2節
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その時--
「よぅ、クォークってのはおめえか?」
背後から、ぬめりのある声が響いた。湊が振り返ると、でっぷりと太った男が腕を組み、城壁に背を預けて立っていた。顔には薄く笑みを湛えているが、目の奥は笑っていない。湊は名乗らなくても、この男が誰なのか分かった。物語の挿絵とまったく同じだったから。
「ダブラー!」
アルダスが声を上げる。その男は構いもせずに湊へ近づくと、顎をグイッと掴んだ。湿った手のひらの感触に、湊の身の毛がよだつ。
「よく見るときれいな顔してるな。女の子みたいだ」
湊の顔にかかる息からは酒の匂いがした。堪らず湊はその手を振り払う。
「……やめてください」
それだけ言うのがやっとだった。物語を読んだ印象では、もっと対等に渡り合えると思っていた。けれども、実物は他者を慄かせる威圧感がある。
大柄な体格にでっぷりとした腹回り。太い首とごつごつした指先。茶色のローブを軽くはだけさせて堂々と立つ姿は、どこか粗野な印象さえ与えた。その表情には底抜けの自信と余裕がにじみ出ており、こんな時でさえ口元にはわずかな笑みをたたえている。その鋭い眼差しは油断なく湊を観察していた。
「俺との面接を断るなんて、いい度胸してるじゃねぇか」
笑顔とは裏腹なドスの効いた声に湊の脚は震える。だが、ここでくじけている場合ではない。
「僕は……アルダス様のような人と働きたいのです」
湊の声も震えていたが、目だけは逸らさなかった。ダブラーの口元の笑みがほんの一瞬だけ消える。
「あぁん? こんな三流錬金術師の下で働いたって、ロクに給料も払われずに路頭に迷うだけだぞ。俺のところで働ければ、二倍も三倍も給料を払ってやるぜ」
そう言って、ダブラーは指を三本突き立てる。その仕草からして下品で、湊は石動を思い出した。なんとなく見た目も似ている。
「僕はアルダス様の誠実で真面目な人柄に惚れたのです」
湊はアルダスに視線を向けた。アルダスは困った顔をしながら、成り行きを見守っている。
「俺が不真面目だって言いてぇのか」
何を言われてもダブラーはニヤニヤしている。まるで、この状況を面白がっているみたいだ。湊は次の言葉に詰まってしまう。あらためて物語を変える難しさを痛感した。
「やめないか。クォークは私の部下だ」
アルダスが二人の間に割って入る。その言葉に、湊はハッとしてアルダスの顔を見た。今、「私の部下」と言ってくれたのですか、と。
ダブラーは面倒臭そうな顔をして、プイッと背を向ける。
「仕方ねぇな。でも、俺は諦めないぜ。おめぇさんもこいつが嫌になったら、いつでも俺のところに来な」
湊が反論する間もなく、ダブラーは歩き出していた。突然、どこに隠れていたのか、派手な化粧の女が駆け寄ってきて、人目も憚らずダブラーの腕を掴んだ。
「あら、ダブラー。今日もいい男ねぇ。昨夜は来なかったじゃないの。寂しかったんだから!」
「悪ぃな、ちょっと野暮用でな。今夜は顔を出すさ」
ダブラーは口元に笑みを浮かべて、肩を抱くように女を引き寄せる。女はくすぐったそうに笑いながら、そのまま腰に手を回して歩き出した。
湊は二人の後ろ姿をぼんやりと見送った。おそらく、どこかの飲み屋の女だろう。物語で読んでいたとはいえ、女好きなところを目の当たりにして、湊はあらためてダブラーを軽蔑した。そんなところまで石動に似ている。
急にアルダスが咳込んで、湊は慌てて向き直った。
「あの……ご迷惑をおかけしてごめんなさい」
「いや、君は悪くはないさ。私の部下なんだからな」
もう一度、アルダスは「私の部下」と言ってくれた。湊は喜びを露わにする。
「それでは……」
「ああ、明日から私のところで働いてくれないか」
湊は大きく頷く。
「ただし、ダブラーが言うように給料はそんなに良くないぞ。それでもいいのか」
「もちろんです!」
アルダスはもう一度右手を差し出した。湊も右手を差し出して強く握り返す。
「それじゃ、よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
湊の心は喜びに満ち溢れていた。そして、彼は気づいていなかった。いつもの悪い癖でアルダスを好きになり始めたことを。




