第2章第3節
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湊が外に出ると、太陽とは反対の方角に大きな白い石造りの城が見えた。クォークの家は長屋の一部屋で、古さのあまり壁が朽ちかけている。近くには大きな港があって、潮の香りが漂っていた。
下町は朝から賑やかで、洗濯桶を持った女たちが通りに並び、大声で噂話を交わしながら洗い物に精を出している。籠を背負った少年が焼きたてのパンを売り歩き、その匂いが十分に食べていない湊の食欲を誘った。
やがて、路地を抜けると道幅が広がり、店が立ち並ぶ職人街へと出た。靴職人の店からは革を打つ音が響き、染物屋では色鮮やかな布が干されている。どこからともなく金属の焼ける匂いも漂ってきた。
湊は視線を彷徨わせながら歩みを進める。不審に思われていないか周りを見回すが、見知った顔だからなのか、誰も気に留めていなかった。
職人街を抜けると噴水のある広場に出た。どうやら、ここが城下町の中心らしい。城を前にして大聖堂と向かい合うのは、目指していた「王立錬金術師同盟」の建物だった。
噴水の周りでは旅人が水を飲み、道化師が子どもたちを笑わせている。そんな長閑さとは裏腹に王立錬金術師同盟の建物は荘厳で、重々しい扉の前には衛兵のような男たちが立っていた。
湊は思わず息を飲む。足がすくみそうになるが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。勇気を出して、建物の扉を開けた。
扉の内側は思っていた以上に静かで、湊が動くたびに靴音が天井まで響いた。正面にはカウンターがあって、いくつもの窓口がある。湊はその中の「進路相談」と書かれた窓口に進んだ。
椅子に座ると制服を着た初老の男性が顔を上げて、じろりと見てくる。すぐに
「クォークではないか。どうしたのかね」
と問いかけてきた。
「あの……」
と湊は推薦状を差し出す。そして
「ダブラー様との面接を取りやめにしたいのです」
と切り出した。すぐに
「何を言っておるのだ!」
と厳しい声が返ってきた。思わず湊は肩をすくめる。
「ダブラーだって喜んでおるのだぞ。優秀な見習いが来るってな。それでも断るというのか」
どうやらクォークは、すでに優秀だと名を轟かせていたらしい。
「ぼ、僕はアルダス様の元で働きたいのです」
湊はやっとの思いでそれだけ言うが
「アルダス?」
と信じられないと言わんばかりの口調で返された。
「やめときなさい。あんな冴えない錬金術師の元で働いたって、まともに給料なんか貰えないぞ」
と係員は散々な評価をする。
「悪いことは言わない。ダブラーに仕える方が安定した暮らしができるのだ。お母さんを楽にしてあげたいと言っておったではないか」
湊は、面接の相手を変えるのがこんなに難しいとは思っていなかった。まるで物語を変えるのは許さないと言わんばかりに。頭の中で思案を巡らせながら、アルダスとダブラーの決定的な違いを口にする。
「僕はアルダス様の真面目で誠実なところに感銘を受けたのです」
それは本当だった。どんな時も愚直で、損得にかかわらず「人としてどうあるべきか」を大切にする。そんなところに惹かれていた。
係員は思うところがあったのだろう。大きくため息をつくと
「仕方あるまい。今回だけは特別だぞ」
と新たな推薦状を書く準備を始めた。
「ありがとうございます」
と湊は大きく頭を下げた。係員はきょとんとした顔をする。
「だが、正式に仕えるにはアルダスの承諾が必要だ。断られたところでダブラーとの面接は適わん。もちろん、後から仕える相手を変えることもできない。それでも良いのか」
係員はもう一度念を押す。
「もちろんです!」
元気よく頷く湊に、もう文句は言わなかった。
王立錬金術師同盟でアルダスへの推薦状を受け取った湊は、その足で中央広場の前にある図書館へ向かった。重い扉を開けて中に入ると、薄暗い中にたくさんの蔵書が並んでいた。
湊はその中からめぼしい本を何冊か取り出し、今日の新聞も小脇に抱えて、空いている席に座る。住人たちにとっては見慣れた光景なのか、「クォーク、今日も勉強熱心だね」と声をかけられる。湊は苦笑しながら、本を開くのだった。
物語のとおり今は十七世紀で、湊はイストリバという王国の城下町にいる。アルダスとダブラーも同じ城下町で店を構えているらしかった。
イストリバは百年以上平和が続いており、それなりに豊かな国である。だから人々は、自由に職業を選べるのだろう。もっとも、その恩恵を受けられるのは一部の身分の人たちだけで、クォークやその母親のような平民はなかなか定職に就けず、暮らしは貧しいようだった。
家に帰ってからも、湊はクォークが買い集めていた錬金術の本を読み漁る。元々、製薬会社の研究員をしていたので、書かれていることは概ね理解できた。手に入る薬草も名前こそ違うけれど同じものだったし、計算式や調合の手順にも違いはなかった。
とにかく今は、アルダスのお眼鏡に適うような錬金術師にならなければいけない。湊は夜が明けるまで、寝る間を惜しんで本を読み続けた。
「明日の面接で物語を変えるんだ」
そんな決意が湊の口からこぼれた。




