47.新たな日常への序章
王都での最終日は、予期せぬ土砂降りに見舞われた。結局、俺たちはフラム師匠が滞在している、王都でも最高級だという宿屋に一泊することになった。
母さんとミーナは「王都で本を買えるのはこれが最後かもしれない」と意気込み、再び本屋巡りへと出かけていった。
ミーナの情熱に付き合う母さんの姿はもはや見慣れたものだ。
二人を見送り、俺は部屋でフラム師匠と向かい合うように椅子に腰を下ろす。
これから始まるであろう学校生活について、きっと厳しい心構えでも説かれるのだろう。俺はゴクリと唾を飲み込み、師匠の言葉を待った。
「さて、ノアよ。学校へ行く上での、たった一つの重要な注意点だ」
師匠はいつになく真剣な面持ちで、俺の目をじっと見つめる。
「精一杯、楽しむがよい」
「え……楽しむ?」
予想外すぎる言葉に、俺は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「うむ。何事も『楽しい』と思う気持ちが、成長の何よりの糧となる。特に『学び』とは、知りたいという欲を楽しむことから始まるものだと、儂は思うておる」
師匠はそこで一度言葉を切り、穏やかな笑みを浮かべた。
「お前たちは儂のおかげで読み書きも計算もできる。その点では他の子供たちよりも一歩先に進んでおるだろう。だからこそ、まだそれがおぼつかない子らがいたら、手を差し伸べて教えてやってほしい。人に教えるという経験は、巡り巡って自分自身の学びにもなるからな」
確かに、母さんとの訓練でも、ミーナに自衛のための剣術を教えている時にも、自分自身の動きの癖に気づくことがあった。
「そしてお前たちがこれから真に学ぶべきは、スアルツァーラやこの国の特産、地理、そして歴史だ。それについては儂もまだ詳しく教えてはおらんかったからな。その分野に詳しい教師を何人か呼んでおる。大いに学ぶといい」
それらの知識は、今後もし俺がスアルツァーラ候を継ぐことになった時、必ず役に立つだろう。フラム師匠はそう言った。
「この国には、まだ民まで広く教えを授けるという制度が根付いておらん。知識は王侯貴族が独占するもの、という古い考えが根強いからのう。だが、それでは国は先細る一方じゃ」
フラム師匠は少し熱っぽく語る。
「儂はこの学校制度をスアルツァーラ州から始め、いずれは国中に普及させたい。そこで育った優秀な者たちが、この国の未来を支える礎となる。それが儂の考えよ」
「…フラム師匠は、すごく色々なことを考えているんだね」
「む? どうかしたか、ノア」
師匠の、この国の未来に関わる大事業を聞き、俺は王都で感じた自分の無力感を素直に打ち明けた。
「俺、この王都に来て、自分が何も知らないってことを痛感したんだ。グラッツェル村のことも、スアルツァーラ州のことも…母さんのことも。いきなり侯爵の後継ぎだって言われたけど、それは全部、母さんがすごいからそうなっただけで俺自身の力じゃない」
情けない告白だった。だが師匠はそんな俺の言葉を遮ることなく、ただ静かに聞いてくれていた。
「ノアよ。知らぬことは恥ではない。だが知らないことを自覚しても行動しないことは恥じゃ。お前は今、その第一歩を踏み出したのだ。知の探求とは、そこから始まる」
師匠の優しい言葉が、不安だった俺の心にじんわりと染みていく。
「ミレーネの過去については…いずれ話す時が来よう。今はまず、お前がこれから生きていくこの国のことを知るのが先決じゃ」
「うん…」
「スアルツァーラで始める学校は、儂にとっても手探りでの船出となる。できれば年齢で教える内容も分けたいところじゃが、何せ初めてのことじゃからな。だからこそ、生徒となるお前の視点から、改善すべき点や、こうした方が良いという意見を率直に教えてほしいのだ」
フラム師匠は俺の目をまっすぐに見て言った。
「うん、わかった。俺にできることなら協力するよ」
「ふっ。それが、ノア殿の侯爵としての最初の仕事になるな」
「師匠!」
師匠は悪戯っぽく笑った。もう、本当にこの師匠は…!
それからも、学校での細かな注意点をいくつか伝えられた。
俺とミーナは貴族として特別扱いはせず、他の子供たちと全く同じように接すること。
俺たちは他の子よりも戦闘経験が豊富だからこそ、決して力で物事を解決しようとしないこと。
そして、教師たちには敬意を払い、真摯に教えを乞うこと。
どれも当たり前のことだと思うので、俺は一つ一つ頷きながら師匠の言葉を胸に刻んだ。
俺たちがそんな話をしていると、母さんとミーナが大量の荷物と共に帰ってきた。
いや、荷物というより魔導書の山だ。ミーナが両腕に抱えきれないほどのそれを、呆れた顔の母さんが半分持ってやっている。
「ミーナ、いくらなんでも買いすぎだろ…」
「これでも、まだまだ少ないくらい」
そう言って頬を膨らませるミーナは、本当に嬉しそうだ。
そんなに大量なら収納袋に入れればいいのに、と思うが、きっとこれがミーナなりの母さんへの感謝の表現なのだろう。
もっとも、母さんはその意図に全く気づいていないだろうが。
ミーナは買ってきた本を机にドサリと置くと、早速その中の一冊を読もうと手を伸ばす。
「ミーナよ。儂としばらく会えなくなるというのに、少しくらい構ってくれんと悲しいぞ」
フラム師匠が心底悲しそうに言うと、ミーナはハッとして、慌てて魔導書から手を離し師匠の隣にちょこんと座った。
「まあ、細かいことはノアに伝えた故、後でノアから聞くといい。それで、儂のことだが…」
フラム師匠の話は、自身の今後のことだった。
「儂はあと最低でも二ヶ月はグラッツェルには帰れんと思う。他国との交渉の最終的な詰めのやり取りが残っておってな。それが終わり次第、すぐに帰る」
「フラム師匠、本当に帰ってくる…?」
ミーナが不安そうに師匠の服の袖を掴む。
「当たり前だ。儂はミレーネの家臣だからな」
師匠は当然といった口ぶりで、ミーナの頭を優しく撫でた。
母さんの家臣、という言葉に少し違和感を覚えた。
ちっとも主人と家臣という関係に見えないのだが、そういう関係もあるのだろうか。
「そういうことなので、ミレーネ。お前は子供たちをしっかり守ってくれ」
「当然」
母さんは当たり前だという顔で短く答えた。
「ミレーネに直接手を出す馬鹿はおらんとは思うが、今回の王都訪問でお前たちは良くも悪くも注目されてしまったからのう。警戒だけは怠るなよ」
その夜は、久しぶりにフラム師匠に王都での出来事や王宮の美味しい料理の話、師匠の冒険譚に耳を傾けながら、4人で賑やかな食卓を囲んだ。
王女様と模擬戦の話になったが、フラム師匠は半ばあきらめながらも予想はしていたようだ。
「…それで、王女殿下には勝ったのか?」
「もちろん」
母さんは自慢げに胸を張って答えるが、フラム師匠は完全に呆れていた。
王都での最後の夜は、温かい笑い声と共に、穏やかに更けていったのだった。




