04.フラム師匠
家の廊下には磯と薬草が混じった香りが漂っていた。
台所の奥からは薪がぱちぱちとはぜるたびに鍋底の煮汁がじゅうっと踊り、まな板から包丁がとんとんと刻む音が漏れ聞こえてくる。
鍋から立ち上る磯の香りが、夕餉の到来を静かに告げていた。
俺とミーナはその懐かしい香りを吸い込み、背筋を伸ばす。今夜の夕食はフラム師匠の手料理だ。
普段の料理担当はフラム師匠と俺、ミーナで交代しながらだが、今日は「休んでいい」と言われた。
ちなみに母さんが台所に入ると、フラム師匠に追い出される。
母さんが料理すると悲惨だからね…。
母さんは料理スキルは高レベルだが、センスが壊滅的だ。
栄養は完璧でも味は思わず鼻をつまみたくなるほど酷く、見た目はゲテモノだ。
だから料理は俺とミーナとフラム師匠の三人で分担している。
──戦闘以外は母さん、衣食住すべてが壊滅的だけどね。
服は見るからに同じ一着、料理は生肉を焼くのが関の山。
「家? 寝れればいい」なんて言う。俺は毎日野宿なんて嫌だ。
「今日の夕食は儂の特製の静和粥だ」
食卓には湯気を漂わせる大きな鉄鉢が置かれている。フラム師匠は大きなしゃもじで粥を軽くかき混ぜ、ふんわりと鍋肌に刻まれた泡をさらった。
この粥は村特産の米、海産の昆布「ルミナク」で取った澄んだ出汁と、そして柔風菜の若葉を煮込んだ粥だ。
風邪や疲労回復に良く、俺たちは聖命水で全快しているものの疲労感を感じる体には嬉しい食事だ。
フラム師匠はおもむろに鍋の端で小さな味見をし、ずっと緩みっぱなしの口元をキュッと引き締めた。「今日の粥の出来は傑作じゃぞ」
フラム師匠が満足な顔で呟く。
散々な旅から帰ってきた俺たちのためにという、フラム師匠の気遣いに心が救われる。
俺はしゃもじで粥をすくいひと口含んだ。米粒はほろりと崩れ、昆布の深い旨味が広がる。淡い磯の香りが鼻をくすぐり、柔風菜のほの甘さが追いかけてくる。お焦げのまろやかな苦みすら心地よく舌をなでた。
──ああ、これこそがうちの味だ。
まさにフラム師匠の愛情が感じられるご馳走だった。
ルピナは鼻先を伸ばして湯気を嗅ぎ、そっと前足を伸ばして「早くよこせ」と言わんばかりだ。ルピナもこの静和粥は大好きだ。取り分けた分が少し冷めたらあげるからな。
食後、俺は皿洗いを手伝うことにした。聞きたいこともあるし。
「フラム師匠、手伝うよ」
「ノア、休んでてもいいんだぞ」
「大丈夫だよ」
フラム師匠は苦笑しながら頷いてくれた。
母さんが食器を洗うと必ず一つは皿を割ってしまうからな。記憶にあるだけで犠牲になった食器は20枚を超えるだろう。
食器を拭く布きんを絞ると、師匠の背中越しに外の雪景色がチラリと見えた。冷たい夜風で、屋根の雪がほろほろと舞い落ちている。
一緒に食器を拭きながら気になったことをフラム師匠に質問する。
「…師匠、今回は何時間?」
フラム師匠は少し間を置いてぽつりと答える。
「……2日と7時間くらい、か」
「2日!?」
俺が聞いたのは今回フラム師匠が母さんを説教した時間の長さだ。
俺の知る限りでは最長記録だ。記録更新、おめでとう母さん。
「1日目はお前達の看病に費やしていたからな。それで二日目に説教開始、三日目の朝まで…」
フラム師匠は母さんが無茶をするたびにお説教をしている。
…母さんが反省している様子は見たことがないが。
「というかだな、お前達は3日も起きなかったんだ。お前たちはもっと自分の身を心配せねばならん。
ミレーネを信用するのはいいが、信頼しすぎは禁物だ」
確かに母さんを信頼して準備を任せたのが失敗だったな。
俺もしっかりしなきゃ──と思った時、師匠がため息をつく。
「はぁ…。とはいえ、あいつがまた何をしでかすか分からん。
お前たちではまだあいつを止められないからな」
フラム師匠の困った顔を見ると複雑な気持ちになる。
母さんに何を言っても聞いてくれないからな…。
母さんは、強い。少なくとも俺は母さんの足元にも及ばない。
記憶が朧げながら覚えている、幼い頃に妹と母さんの背中に揺られて見たのは業火の中で荒れ狂うドラゴン相手に剣を振り、魔法を放つ母さんの姿だった。まるで子供のお使いのように軽やかに。
後から知ったが、それはエンバーストームドラゴンという──ソロ討伐不可能と恐れられた上級種。
赤子を背負って挑む者など、この世で母さんだけだろう。
母さんは「緊急事態だったから」と報告し、ギルドマスターから「だったら子供たちはギルドに預けていけ!」と言われたそうだ。
──そのときの母さんの「それ、思いつかなかった」という話は有名になったらしい。
母さんは1人でどんな困難なことも達成してしまう──それが当たり前と信じているから、他の人も同じようにできると考えてしまう。困ったものだ。
フラム師匠もまた謎が多い。幼いころから父親代わりとしてずっとそばにいてくれた。俺の実の父さんはもういないと子供の頃に聞かされている。
母さんとは違い、なんでもできる。剣も魔法も教えるのが上手い──俺が母さんの次に尊敬する人だ。
実は師匠が父さんなんじゃないかと本気で思ったこともある。思わず「父さん」と呼んだことがあるが、そのとき師匠は険しい顔で「わしは父さんではない」とキッパリ言った。
その強い拒絶感に傷ついたが、今では何となく分かる気がする。
静和粥のレシピと作り方
・静和粥はグラッツェル村の豊かな水辺で育った特産の米をふんだんに使い、昆布で取った柔らかな出汁で煮込む、胃に優しいお粥。
病人や体調を崩したときに消化が良く栄養を補給できるため、村民たちは「穏やかな命の温もり」と呼び、日常的に親しむ。祝い事や記念日にも作られる一品。
材料(2人分)
・米(グラッツェル米):1/2合
普通の炊飯より水を多めにして柔らかく仕上げるため、量を控える。
・出汁(ルミナク昆布出汁):600ml
※ルミナクは近海で取れる昆布で、豊かな旨味とまろやかな風味が特長。
・柔風菜(ロヴェナの幼苗):30g程度
※胃に優しく、ほのかな甘みと彩りを添える緑葉野菜。
・塩:適量
・ミリオール:ひとつまみ
※自然な甘みを加える。
1. 米を準備する
・米を軽く洗い、たっぷりの水に浸して1時間ほど置く。
2. 出汁を準備する
・ぬるま湯でルミナクを20分ほど戻し、その戻し汁ごと600mlになるよう水を足して出汁にする。
※濃いめに取ると煮込んでも風味が残る。
3. 煮込む
・鍋に浸水した米と出汁を入れて中火にかける。
・沸騰したらアクをすくい取り、弱火に落とす。
・米がほろりと崩れ、とろみが出るまで約30分煮込む。
・煮込み終盤に柔風菜を加え、さらに5分ほど煮る。
・塩とミリオールを加え、味の調和を整える。
4. 仕上げと盛り付け
・火を止め、蓋をしたまま5分ほど蒸らして味をなじませる。
・器に温かいうちに盛り、好みで追加の柔風菜を添えて完成。