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16.還り血の記憶と稲穂の夢

「──済まぬ。遅れた」


儂はミレーネに駆け寄り、まず謝罪の言葉を口にした。

子供たちに命に別状がないことを確認し、安堵の息を漏らす。


「その様子を見るに、子供たちは無事だな。…ひとまず、安心したぞ」


今回ばかりは、儂の長い経験の中でも特に肝を冷やす事態だった。

ミレーネは日頃から子供らに無茶を強いる。雪山に置き去りにした一件も、傍から見れば狂気の沙汰だ。


だが、あの事件も子供たちは全てミレーネの監視下にあったことで、子供たちの限界を見極めた上でのことだ。

だから決して命を落とすような事態にはならないという信頼があった。

…もっとも、10歳の子供に対して行うことではないがな。


しかし今回は全く次元が違う。女神の、それも悪辣な類いの女神による直接干渉だ。

奴らは人界を覗き見ては、介入の機会を窺っている。


理由は天界にはろくな娯楽がないからだと言われている。

人間の生き死にを見て、それを己の娯楽とするのだ。


特に八大女神以外の、契約や循環を司るような女神は、その手段が陰湿で悪質だ。

…だがこれほどあからさまな介入は、本来数百年単位で起こるかどうかの事象だ。


ミレーネはしばらく無言でノアとミーナを見つめていたが、ふとこちらに視線を向けて問いかけてきた。


「どうやってここに? フラムとルピナはイヴェリナの選別から弾かれていたはず」

その通りだ。あのクソ女神は儂とルピナを神殿への転送対象から除外していた。

儂のことを見抜いていたのか、単に邪魔だったのか。


「フン。少々手荒な真似をさせてもらった。

奴が張った結界は見た目以上に厄介な代物だったが、無理やりこじ開けてきたわ。

これでしばらくは、あの女神もこの地に容易くは顕現できんだろうよ」


期間は数年か、数十年か…あるいは数百年か。正確なことは読めぬ。

何せ女神の情報はあまり開示されておらぬからな。


「どれ、儂がノアを担ごう。お前はミーナを頼む」


今は考えるよりも行動だ。ノアの小さな体を背負う。


ノアを背に乗せるのは何年振りのことであろうか。

いつの間にかこんなに大きくなっていたとは、子供の成長とは本当に早いものだ。


「ルピナよ。今はお前が頼りだ。儂らの護衛をしっかり務めよ」


ルピナに魔力を込めた言霊で厳命する。これは単なる命令ではない、拘束力を持つ呪だ。

ルピナはビクッと体を震わせ、低く唸って応えた。その真紅の瞳に強い覚悟の色が宿る。


足早にこの忌まわしい神殿の出口に向かって進む。こんな場所に子供たちを少しでも長居させたくない。

ミレーネが絞り出すように後悔の念を口にした。


「…今回は迂闊だった。まさかこんな事態になるとは思わなかった」

「それを言うのは儂も同じだ。新しいダンジョンに向かわせるべきではなかった。

…儂の責任だ」


それでも女神の介入などという前代未聞の事態を誰が予想できただろうか。

だが一度起きたことがもう一度起きないとは限らない。

対策は必須だ。しかし、その対策は王国を巻き込む可能性が高い。


…気が重いな。王国を巻き込めば、国はミレーネと、そしてミレーネの子供たちを取り込もうとするだろう。

救国の英雄、その子供たちであれば奴らにとってはいくらでも利用価値がある。


儂はこれまで子供たちをそうした政治の道具にさせまいと、国から遠ざけるように動いてきた。

だが今回の件を王国に報告せぬわけにはいかない。

報告を怠ったと知られた時の方が、我々の立場はより悪くなるからだ。これほどの事態、隠蔽し通すのも難しいだろう。


儂としては子供らを政治に巻き込まず、ただ伸び伸びと育ててやりたかったのだがな──

ノアを背に揺らしながら、これからやらねばならぬことを思い浮かべる。


その時隣を歩くミレーネが、不意に小さな声で呟いた。


「…フラムは…わたしの味方でいてくれる?」


予想だにしない言葉だった。それは、まるで古い古い契約の有効性を、今一度確かめようとするかのような響きを帯びていた。

その声には隠しきれない不安と焦りが滲んでいた。


儂は一度歩みを止め、ミレーネの目を見つめる。

そして確たる意志を込めて応えた。


「無論だ。儂の魂はあの日より貴方の物。我が命尽きるその時まで、永遠に貴方と、貴方の子らに忠誠を尽くすと誓おう」

目を覚ますと、そこは家のベッドの上だった。

月明かりが差し込む部屋で、隣には母さんとミーナが静かな寝息を立てており、ミーナの黒髪がその光に揺れていた。


俺はミーナの柔らかな髪にそっと触れる。その安らかな寝顔を見ていると、なんだか胸が熱くなる。


無事ふたりで帰ってこられた。

大事な妹の寝顔を守れたことが、今は何より嬉しかった。


ミーナの横顔に安心しつつも、目を閉じると、脳裏にはあの時の光景が蘇る。

女神イヴェリナ、朽ちた神殿、恐ろしい眷属、そして金色の耳の人々の光景── あれは、いったい何だったのだろうか?


「…ノア、起きたの?」

考え込んでいた俺に母さんが声をかけ、ビクッとしてしまった。


「うん。母さんも起きてたんだ」

母さんは優しく目を細め、そっと俺の手を握ってくれた。


「体の具合はどう? どこか痛む?」

「…大丈夫。でも少しだけ、体が重いかな」


嘘じゃないが、全て本当でもない。あの恐怖が、今も体の奥に残っている。

母さんは何も言わずに、俺の髪を優しく撫でてくれる。

その手はなんだか懐かしくて、とてもあたたかい。


「怖かった?」

「うん…。すごく」

「ごめんね、わたしがもっと早く、そばにいてあげていれば…」


母さんの声が微かに震えている。こんな母さんを見るのは初めてかもしれない。何気ない言葉のやりとりに、思わず涙が滲んだ。


ミーナの寝顔に再び目を向ける。穏やかな呼吸。この日常がどれほど尊いものか、痛感していた。


「ミーナも、本当に無事でよかった」

「ふたりとも、よく頑張った」


母さんは微笑み、何度も俺の頭を撫でてくれる。


「もう少し寝たほうがいい。明日になれば、また普通に歩けるようになるから」


(明日、また日常が戻る…)

本当に?──

心のどこかで、何かが変わってしまった気がしていた。


「ねぇ、母さん。一つ、聞いてもいい?」


俺は躊躇いつつも、胸に引っかかっていた疑問を口にした。


「俺、あの時…、何か視たんだ。金色の立派な耳をした人たちが、黄金色の稲穂の中に立ってて、じっと俺のことを見ていた。あれは、いったい…何だったの?」


母さんはそっと目を伏せた。月明かりに照らされた横顔が、深い哀しみを湛えているように見えた。長い沈黙の後、ぽつりと口を開く。


「それは、血の記憶。ノアが見たのは、おそらく先祖返りを起こした時に垣間見える、魂に刻まれた記憶の一部。

遠い、遠い昔の私たちの祖先…天穂族の記憶。わたしたち黒穂族の、遥か昔の血筋に連なる、誇り高き民の姿」


「先祖返り…? 天穂族…?」


聞いたことのない言葉だったが、その響きには特別な力が宿っているように感じられた。


「黒穂族の中でもごく稀に、その身に宿る還り血が強く表れる者がいる。ノアが無意識に振るったあの力は、自らの血と心臓を代償にして、魂そのものを燃やして放つ禁断の力。本来なら、決して触れてはならないもの」


母さんの声は静かで、そして深い哀しみを帯びていた。

月明かりに照らされた横顔は硬く、俺を案じる切実な想いと、禁忌の力への静かな怒り、そして何か根源的なものへの拒絶感が滲んでいるように見えた。


「ノア、誓って。もう二度と、あの力は使わないと」


母さんの言葉は静かだったが、有無を言わせない強い意志が込められていた。


「でも、あの時、ミーナを守るためには、あれしか…」

「だめ」


その一言は鋭く、揺るぎなかった。


「たとえ誰かを守るためでも、その力を使ってノアを失ってしまったら意味がない。

代償を求める力に一度でも飲まれたら…。だから、絶対に、もう使ってはだめ」


「ノアは、今回はかろうじて戻ってこれた。けれど、もし次があったら…もう、戻ってはこれないかもしれない…」


母さんの声は優しかったが、拒むことのできない絶対的な意志があった。

ただ、またミーナが危機になったら、俺はきっと…。

俺は何も言わず、ただそっと頷いた。



◆◆◆


翌朝の朝には、母さんの言った通り体は軽く歩けるようになっていた。


枕元にはいつの間にか黒曜鋼の新しい刀が置かれている。

壊れた刀の代わりを、母さんが用意してくれたのだろう。


俺は新しい刀を鞘から出してみた。黒くて、鈍い光を宿した黒曜鋼の刀。

前の刀よりずっと立派で、今の俺にはもったいないくらいだ。

それでも手に取ってみると、前のよりもずっとしっかりしていて良い刀だってことはすぐに分かった。これなら、きっと大丈夫だ。


「うおおおおおおお! ノア! ミーナ! よくぞ無事であったぁああ!!」


居間へ行くと、フラム師匠が大泣きしながら俺たちに抱きついてきた。

フラム師匠、痛い! 安心したのは分かったけど、そんなに強く抱きしめるのはやめてくれ! 病み上がりなんだから!


フラム師匠は俺たちが気を失っている間、かなり忙しかったらしい。

リンデル近郊のダンジョンが女神の干渉を受けたという前代未聞の事態を王国に報告し、イヴェリナの神殿があった地域は今後一切立ち入り禁止とした。


また、高位の僧侶たちによって強力な封印も施し、物理的にも魔法的にも容易には侵入できないようにしたそうだ。


「女神がダンジョンに干渉するとはな。まさに前代未聞だ」


フラム師匠は腕を組み唸る。


「フラム師匠でも知らなかったの?」とミーナが尋ねる。


「うむ。儂もミレーネも初耳で、王国にも前例はないそうじゃ。して、王国の見解では、ダンジョンの生成時に偶然イヴェリナの神殿の残骸が転送され、そこに女神が干渉したのではないか、とのことらしいが…さてはて」


あの時フラム師匠は見かけなかったな。何をしていたのだろうか?


「そういえば、フラム師匠はどこに転送されてたの?」

「儂か? 儂は転送なぞされておらんわ! あの女神めが、『親父臭いのはここで待っていなさい』じゃと! なんと失礼な!」


女神の神殿に転送されたのは、母さんと俺、ミーナの3人だった。

フラム師匠はなんとか女神の封印を破り、イヴェリナの神殿に侵入したそうだ。


「転送魔法は馬鹿みたいに魔力を使うからな。お前たちが飛ばされたのは遠くないと踏んでおった。だが入り口はあの大木の裏側に闇魔法で隠しておった。

本当に性格の悪い女神よ」


フラム師匠は忌々しげに吐き捨てる。女神を相手にとても口が悪い。


そういえば、俺も迷路のような神殿で女神に文句を言ってしまった気がする。

…聞かれていなければいいのだが。


…女神イヴェリナ様、お願いです。どうかもう二度と、私たちの前に現れないでください!

俺はいつもよりも真剣に女神様に祈るのだった。

第一章、最後まで読んでくださりありがとうございます!

無事完結しましたので、よろしければ

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