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15. 紅き鬼神

「私の子供たちに、何をした?」


地獄の底から響いてくるような、低く、静かで、それでいて全てを凍らせるような声。 恐怖で全身の毛が逆立ち、身体の芯まで冷えそうだ。 声を聞かなければ、その気配の主はわからなかっただろう。 ──そう、母さんだ。


空気が張り詰める。いや、凍てついた。さっきまでの死闘の熱気、俺自身の血の匂いすら、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまうほどの絶対者が放つプレッシャー。 それは冷たい壁のように俺の全身を圧迫し、呼吸さえ許さない。


アーヴェントリーフに吹き飛ばされ、受け身も取れず地面に叩きつけられる寸前だった俺の体は、いつの間にか母さんの腕の中にあった。壊れやすい卵を包み込むように優しく、しかしもう二度と手放さないような、芯のある力強さで。


「か、かあさ…」


俺はなんとか声を出そうとしたが、息をするだけで精一杯だ。喉がヒューヒューして、焼けついたような、掠れた音しか出てこない。 視界もまだ霞んでいて、すぐ目の前にあるはずの母さんの顔すらぼやけている。


でも、俺を抱きしめる腕の力強さ、嗅ぎ慣れた母さんの匂い、そして何より、この場を支配する圧倒的な存在感だけははっきりと感じられた。 この息苦しさは、体の悲鳴か、それとも母さんからの圧倒的なプレッシャーのせいか、俺には分からない。


「ノア、しゃべらなくていい」


俺の唇に母さんの指がそっと添えられる。ひんやりとした指先。そこから温かい回復魔法の光が流れ込んできて、全身を苛んでいた焼けるような痛みが急速に和らいでいくのが分かった。


飛びかけていた意識がゆっくりと戻ってくる。でも体はまだ石みたいに重く、指一本すら満足に動かせそうにない。どれだけの血を流したのだろうか。


「応急処置だけ。完全に治すのは、家に帰ってから」


それはとても柔らかく、安心感を与えてくれる声色だった。いつものどこか突き放すような母さんとはまるで違う。けれどその優しい声とは裏腹に、母さんの視線は氷のように冷たく、ただ一点──俺たちを蹂躙したアーヴェントリーフだけを射抜いていた。


家に、帰れる。


もうダメだと思っていた。あの暖かい家には、もう二度と戻れないのだと。 フラム師匠の作る、あの暖かい手料理も、膝の上で撫でる時のルピナの温もりも、ミーナが隣で眠る光景も、もう叶わないのだと。


絶望の中で光を灯してくれた母さんのその言葉に、俺は涙が溢れ出した。 止まらない涙が、視界を歪める。


「よく、耐えたね」

俺の頭を優しく撫でる母さんの手。 その温もりに、張り詰めていた最後の糸が切れたように全身の力が抜け、俺は再び意識を手放しそうになる。


母さんは俺をゆっくりと地面に横たえると、静かに立ち上がった。 立ち上がるその一瞬で、先ほどまでの優しかった母さんの気配が完全に消え失せ、代わりに凄まじい怒りと純粋な殺意がその場を満たした。


空気がビリビリと震えて、肌が粟立った。殺意が俺に向けられているわけではないのに、その圧倒的な気迫だけで再び呼吸が苦しくなるのを感じた。


「行くよ、紅狼剣」

母さんは腰の愛刀に手をかけ、囁く。まるで長年の相棒に語りかけるように。


鞘走りの音とともに抜き放たれた緋色の刀身が、まるで主の激しい怒りに共鳴するかのように、低く、長く、咆哮するように聞こえた。


刀身にはまるで古代の紋様が浮かび上がり、淡い光を放っている。 あの紋様はなんだろう?普段の紅狼剣にはあんな模様はないはずだ。


母さんの周囲に陽炎のような紅い闘気が渦を巻いて広がっていく。

それはまるで、大地から噴き出した血の奔流。濃く、深く、昏く、全てを焼き尽くさんばかりの禍々しい赤。


「お前は潰す」


それは、紛れもない断罪の宣告。 母さんの姿が掻き消えた

──そう認識した瞬間には、その紅い残像はアーヴェントリーフの懐深く滑り込んでいた。


アーヴェントリーフも、無機質な歯車の顔を母さんに向け即座に反応する。

その両腕が瞬時に変形し、禍々しい黒光りを放つ巨大な鎌へと姿を変える。俺の愛刀を砕き、ミーナを柱ごと両断した、あの凶刃だ。


キィィィンッ!!


耳をつんざく甲高い金属音。 火花が散り、紅と黒の剣戟の音が神殿の奥深くまで激しく木霊する。

目にも止まらぬ速さで交錯する二つの影。ぶつかり合うたびに衝撃波が周囲の瓦礫を容易く吹き飛ばし、床の石畳を砕いていく。


次元が違いすぎる。これが、母さんの本当の戦い── Sランクだけが追いつける世界。

俺とミーナが死力を尽くしても傷一つつけられなかった相手を、母さんが完全に圧倒している。まるで赤子の手をひねるように。


アーヴェントリーフが剣戟の間に、母さんの足元に再びあの漆黒の魔法陣を出現させる。

俺の動きを封じ、骨が軋むほどの重圧で地面に縫い付けた、忌まわしい重力魔法。それが今、母さんを捕らえようと牙を剥く。


まずい! あれは──


「それで私を止めたつもりかあぁっ!」


咆哮。 それは、神殿そのものを揺るがすほどの、母さんの怒りの叫びだった。

全身から紅い闘気がさらに激しく噴き上がる。

重力魔法の不可視の圧力をものともせず、いや、むしろそれを圧倒的な力で捻じ伏せるかのように剣速がさらに、さらに加速した。


アーヴェントリーフが防御体勢を取るよりも遥かに速く。

紅狼剣の描いた緋色の軌跡が、奴の変形した両腕を、根元から綺麗に切断した。

虚しく宙を舞い、その残骸が床を無造作に転がっていく。


そして、次の瞬間。


「紅王絶斬!──」


目に焼きつくかと思うほどの閃光が迸る。 俺はその瞬間、血が凍りつくような錯覚がした。それは、自分が血を代償にして放った技と同じ感覚──


無数の斬撃が、嵐のようにアーヴェントリーフの全身を襲った。

縦に、横に、斜めに。あらゆる角度から繰り出される緋色の閃光は、硬質なはずの金属の体を、まるで果実のように切断し粉砕していく。


断末魔の叫びすら上げる間もなかった。 アーヴェントリーフの体は原型を留めないほど斬り刻まれ、最後は炎と光の粒子となって静かに霧散していった。


(…あらあら、つまらない幕引きね。まあいいわ。今回はこれでお終いにいたしましょう。ヴァルナリアに寵愛されし子達よ。また存分に楽しませてくださいませ──)


またあの声が頭の中に木霊する。女神イヴェリナ

── 心底つまらなそうな、しかしどこか愉悦の色を隠さない響きが、俺たちの頭の中に直接響き渡る。その声が消えると同時に、この廃神殿全体を覆っていたような重苦しく粘つく気配が、ふっと消え去った。


静寂が戻る。 後に残されたのは、半壊した神殿の瓦礫と、血と埃にまみれた俺たちだけだった。


母さんは紅狼剣を鞘に納める。その横顔には、先ほどの鬼神のごとき怒りは微塵もなく、ただただ深い悲しみと、自分を責めるような後悔の色が痛々しく浮かんでいた。


俺はようやく楽になった呼吸を整え、精一杯の声を出す。

「かあさん…ミーナを、ミーナを助けて…」


母さんは現実に引き戻されたかのようにはっとし、すぐにミーナの側に駆け寄り、柱の残骸のそばで倒れているミーナのそばに膝をついた。


「ミーナ……ごめんね。私がもっと早く来ていれば……」


囁くような声とともに、優しい回復魔法の光がミーナを柔らかく包み込む。

ミーナはまだ目を覚まさないが、さっきよりも顔色はずっと良くなり、苦しげだった呼吸も穏やかさを取り戻しているように見えた。

良かった……本当に良かった。


「ノアもミーナも本当に、よく耐えてくれた…」


母さんの目に涙が浮かんでいる。いつも絶対的な自信に満ち溢れている母さんが、こんな弱々しい声を出しているのを、俺は初めて聞いたかもしれない。

それだけ、俺たちの状態が酷く、そして心から心配してくれていたということか。


「二人とも、よく頑張ったわ。…あとは任せて。家に帰ってからちゃんと治療するから。だから今は、ゆっくりおやすみ──スラファ・ルーア」


ミーナの横から、静かで心地よい眠りの呪文の優しい響きが聞こえてきた。

抗いがたい眠気が、急速に俺の意識を甘く包み込んでいく。

薄れゆく視界の中で、母さんの涙が、俺の頬を伝わる。


──おやすみなさい、母さん。

俺はそのまま、安堵感に満たされながら、深い、深い眠りに落ちた。

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