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14.アーヴェントリーフ

「…にーに、あれは、なに…?」


ミーナの声が、廃神殿の冷たい石畳に震える。俺の背筋に悪寒が走った。

目の前に浮かぶ異形の存在──アーヴェントリーフ。


漆黒のマントは闇そのものを凝縮したかのようで、光すら吸い込んで揺らめいている。

その奥、頭部があるべき場所には、無機質な歯車が複雑に組み合わさり、冷たく、規則的に、だがどこか狂気じみた旋律を奏でながら回転している。


絵本で見た死神? いや、違う。子供向けの物語に出てくるような死神とは比較にならない。

これは、もっと本能の底から恐怖を呼び覚ます。 ただそこにある生命を"無に還す"。


ただそれだけを使命として与えられた存在なのだと、その異形は訴えている。

──処刑人。俺にはそうしか思えなかった。


俺は震える手で刀を抜いた。柄を握る手のひらが汗ばむ。

心臓が重く脈打つ。逃げたい。 だが、足は鉛のように動かなかった。


こいつは、ただの魔物なんかじゃない。女神イヴェリナの眷属。 今まで戦ってきたどんな敵とも次元が違う。 倒せる保証なんてない。希望の欠片も見えない。


それでも——やるしかない。ミーナを守るために。


「ミーナは柱の影に隠れて援護してくれ」


俺はかろうじて声を絞り出した。 ミーナは息を呑み、こくりと頷く。


「いいか、もし逃げられそうなら、ひとりで逃げるんだ。絶対に、振り返るな!」


その言葉に、ミーナは頷かなかった。

ひとりで逃げる、というのが彼女には受け入れられないのだろう。分かっていた。けれど、言わずにはいられなかった。


俺は深く息を吸い込み、アーヴェントリーフと対峙する。まず、奴の最初の一手を見極める。


刹那——音もなく、アーヴェントリーフが動いた。奴の姿が消えたと思った瞬間、風が哭き、巨大な黒鎌が虚空から現れ、俺に降り注いだ。


「ぐっ…!」

咄嗟に刀で防ぐ。鋼と鋼が激突し、火花が散る。重い! 腕が痺れ、骨が軋む。


後方でミーナが呪文を唱え始めた。頼む、ミーナ…!


アーヴェントリーフが再び鎌を振り上げる。変則的な軌道。目で追うのがやっとだ。これをまともに受けたら、刀ごと両断される。


ギリギリで受け流す。刃が肩を掠め、血が噴き出した。一撃ごとに命が削られる。恐怖が思考を麻痺させる。


その時、ミーナの詠唱が終わった。奴の足元に、氷の魔法陣が展開される。


「ゲルム・カテナ!」

地面から無数の鋭い氷柱が突き上がり、アーヴェントリーフを襲う——かに見えた。


パリンッ!


鎌が一閃される。ただそれだけで氷柱は脆く砕け散る。その破片と共に、斬撃が俺へと迫る。


「効いてない…!」

ミーナの絶望的な呟き。そうだ、効いていない! 中級魔法では足止めにすらならない。


氷の破片が頬を切る。歯を食いしばり、鎌を受け流す。

だが防ぎきれない。刃が肩口に深く食い込み、骨に達する激痛。


「ぐ、ああぁっ!」

呻き声が漏れる。傷口から止めどなく血が流れ落ちる。 駄目だ、このままでは…!


「クレイア・ブリッツ!」

ミーナが諦めずに次の魔法を放つ。一条の雷が、奴の胸元に突き刺さった。


ギギッ…! 初めて奴の歯車の回転がわずかに乱れた気がした。

雷撃は多少なりとも効果があるらしい。


「ミーナ! 効いてる! でも無理はするな! 隙を作ってくれれば…!」


叫んだ。ミーナの魔法で削り、俺が致命傷を狙う。 運がよければ逃走——そんな甘い幻想が、一瞬だけ胸をよぎった。


だが現実は非情だった。


「ギギギ…」

アーヴェントリーフが鎌を構えたまま、その歯車の顔をゆっくりと…ミーナへと向けた。 無機質な視線が、柱の影の妹を捉えた。


しまった。奴の狙いはミーナか!


奴が鎌を振るう。先ほど俺たちを薙ぎ払った、あの不可視の疾風の爪。

禍々しい気を纏った真空の刃が、ミーナが隠れている石柱を目掛けて放たれた。


「ミーナッ、避けろ!」

叫びは間に合わなかった。


ゴシャッ…!! という鈍い破壊音。そして、


「あうっ——!」

小さな、短い悲鳴。


俺は振り向いた。見たくない光景が目に焼き付く。石柱が斜めに切断され、崩れ落ちていく。

そして、瓦礫の下から覗く、妹のローブの切れ端と、飛び散った、鮮血。


「ミーナッ!!」

俺の絶叫が虚しく響く。


「にーぃ……にぃ…」


瓦礫の隙間から聞こえる声は、糸のようにか細く、今にも消え入りそうだ。 ミーナの命が零れ落ちていく。その現実が、俺の頭の中で理解された瞬間——


ブツン、と何かが切れる音がした。


怒り。憎しみ。絶望。後悔。負の感情が濁流のように押し寄せ、俺の思考を真っ白に塗り潰す。 体が勝手に動いていた。冷静さなど欠片もない。

ただ、目の前の敵を倒す。その衝動だけが、俺を突き動かしていた。


「あああああああっ!!」


吼えながら、アーヴェントリーフに斬りかかる。 連撃、連撃、連撃。

刀を何度も叩きつけ、鎌と火花を散らす。 斬る、弾く、避ける。再び斬る。

獣のように、ただひたすらに刃を振るい続けた。


だが、それは冷静さを欠いた暴走。 アーヴェントリーフは、俺の猛攻をまるで風を受け流すかのように捌く。 そして俺は気づいていなかった。 奴が足元に禍々しい漆黒の魔法陣を展開したことに。


「…うぐっ…ぁああ…!」


空間が歪む。重圧が足元から全身へと駆けめぐり、押し潰さんばかりだ。 膝が悲鳴を上げ、骨が軋む。地面に押しつぶされそうになるのを必死で堪える。


動きが、鈍る。体が鉛のように重い。そこに、容赦なく鎌の追撃が襲いかかる。 受け流すことも、防ぐことも、避けることもできない。


ザシュッ!ザシュッ!ザシュッ!


肉を裂く生々しい音が響く。腕を、足を、胴を。俺の体はズタズタに斬り裂かれていく。 鮮血が舞い散る。痛みすら感じなくなっていた。意識が急速に遠のいていく。 視界が霞み、手足の感覚が消える。このままでは、だめだ。ここで、終わりなのか…?


恐怖が全身を駆け巡る。俺が死ぬのは構わない。でも、ミーナは。ミーナだけは…! その想いが、消えかけた意識の底で、最後の火を灯した。


ドクン、ドクン、ドクン…! 心臓が異常なほど激しく脈打つ。破裂しそうな鼓動。 中心から焼けるような激痛が広がる。なんだ、これは…!


一瞬、幻を見た。黄金色の稲穂の中に佇む、金色の猫耳と尻尾を持つ人々の姿。 彼らは皆、稲穂の向こうから、どこか懐かしい眼差しで俺を見つめていた。


幻想は一瞬で霧散したが、目に焼き付いている。次の瞬間、心臓の鼓動はさらに激しくなり、全身の血液が沸騰するような熱さを感じた。


くるしい、あつい、息ができない…!


脳裏に、直接響く声があった。囁きのようだった。


『代償を、捧げて——』


…ああ、そうか。これが、俺に残された最後の…


「血哭絶牙——」

知らない言葉が、掠れた喉からこぼれ落ちた。


呟いた瞬間、俺の体から生命力がごっそりと吸い取られ、砕け散る寸前の刀身へと注がれる。

刀身が禍々しい紅い光を放つ。大量の血液と生命力を代償にした禁忌の力。朦朧とする意識——


だが、俺は最後の力を振り絞り、アーヴェントリーフへと飛びかかった。命の灯火すべてを燃やすように、最後の一撃を叩き込む。


紅く輝く刀身が、アーヴェントリーフの構えた鎌に触れた瞬間——キィン!という音と共に、女神の眷属の凶刃が粉々に砕け散った。


いける! このまま、奴の本体を…!そう思った。

だが、代償はあまりにも大きすぎた。俺の命が燃え尽きかけていると同時に、愛刀もまた限界を超えていたのだ。


バキンッ!! 紅い閃光を放っていた刃は、アーヴェントリーフに届く寸前で力なく砕け散り、無数の破片となって舞った。


そして、反動で動きを止めた俺を、アーヴェントリーフの残った腕が、無造作に振り抜かれた。


「あ……」

衝撃。体が宙を舞う。受け身など取れない。視界が歪み、世界が回転する。


痛みは感じなかった。ただ、昔の記憶が次々と脳裏を駆け巡る。母さんの背中。フラム師匠の手。ミーナの笑顔。ルピナの温もり。

これが走馬灯か。やけにゆっくりと時間が流れる。


このまま落ちたら、今度こそ本当に死ぬだろうな。落下していく。俺は静かに目を閉じ、終わりを覚悟した。

だが、最後の衝撃は訪れなかった。代わりに、ふわりと、それでいて力強い腕が、俺の体を優しく抱きとめていた。


そして、声が聞こえた。


「私の子供たちに、何をした?」


地獄の底から響くような、低く、静かで、それでいて触れるもの全てを凍てつかせるような声。 その声の主が誰かわからなかった。

知っているようで、知らない声——。 俺は安堵よりも先に、心の底からの恐怖に打ち震えていた。

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