初バイトは公園で
※作品の題材として、自殺の話に触れています。苦手な方、閲覧途中で苦しくなった方は、すぐにページを閉じてください。
スマホのアラームで目が覚める。いつの間にか起床時刻は過ぎており、無意識にスヌーズ機能を使っていたことを知る。一瞬頭が真っ白になったものの、現実はそう待ってはくれない。飛び起きてクローゼットを思い切り開いた。
「ちょっと、何やってんの!!」
クローゼットの扉が勢い良く開き、想定していたよりも大きな音が出た。キッチンから母の叫び声が聞こえる。
「ごめん!だって学校遅れちゃうから……」
母は「はぁ?」と言いながらフライパンをコンロに置いた。金属が触れ合う耳障りな音が響く。
「今日、日曜日よ?」
壁に掛けたカレンダーを見ると、まだ斜線を引いていない数字が赤く染まっている。念の為スマホも確認してみたが、カレンダーと全く同じ日付だった。
「……まじかぁ……」
仰向けでベッドにもう一度寝転がる。特大の溜息は下の階まで響いていたようで、母が何かを大声で話していた。何を言われているか、容易に想像がつく。『早く起きなさい』とか、『朝から溜息なんて幸せが逃げるわよ』とか、そんな説教じみたことを言われているに違いない。
母の声を聞かないようにしてスマホの画面を見ると、朝の7時を過ぎていた。休日にしてはやけに早起きであり、残っている課題を完遂するには丁度良い時間だった。
重い体を無理に起こして通学鞄のジッパーを開く。幸いなことに課題の殆どは終えており、残っているのは問題集一冊の丸付けのみだった。ただ、丸付けほど過酷な労働はないと思う。数学に関しては、赤ペンばかりになりそうな気がしていた。
「ご飯テーブルに置いとくからねー」
「…はーい」
返事はしたものの、今の興味は勉強へ向いていた。問題集を開き、面倒なものから片付ける。数学、科学を何とか終わらせると、減少する赤インクのせいでやる気が失せていくのを感じていた。脱力して椅子に凭れると、控えめな腹の音が鳴る。スマホは午前8時を示していた。出された朝ご飯はとっくに冷めているだろう。母の事だから、ラップもせずにいるに違いない。意外と母は身内に厳しい。特に朝は機嫌も態度も悪い傾向にあった。
下の階に降りてみると、母が洗濯籠を持って歩くのが見えた。これから干しに行くらしい。籠の中はぐっしょりと濡れていて、それらの重みで母は前屈みになっていた。
「腰悪くなるよ」
言ってから、やんわりと唇を噛んだ。無駄なことを言ってしまった。こちらとしては『持ち方を変えたほうが良い』と言いたかったつもりだったのに、それは母にとって要らないお節介なのだろう。
予想通り、母はムスッとした表情で籠を床に下ろした。床が傷つくよ、という言葉はさすがに飲みこんだ。
「だったら少しぐらい手伝ってよ」
「無理。だって学生は勉強が仕事でしょ?こっちも手伝ってくれるならいいよ」
母はいつも勉強を勧める。それは頭の良い父になってほしい為であり、母のようになってほしくないからだという。だが、同時に将来を見据えて家事もしろと言ってくる。花嫁修業や一人暮らしの為だと言うが、今詰め込んで何になるというのだろうか。
だから反論した。結論はわかっていたが、理不尽に怒られて終わるよりはましだと思う。
「あんたって子は、口ばっかり達者なんだから…」
母は聞こえるように溜息を長々と吐いた。そして置いた洗濯籠を重そうに持ち上げると、ぶつくさ文句を言いながらリビングから出ていった。
「……あまり母さんを困らせるなよ」
嵐が過ぎ去った後、父がコーヒーを啜りながら呟いた。低音で掠れた朝の声だからか、疲れている印象を受ける。実際、昨日は夜遅くに帰宅したため、だいぶ疲弊しているようだった。
「……ん、わかってる」
父は基本無口で何を考えているか分からない。その癖、たまに口を開けば叱責やニュースの愚痴ばかりが飛ぶ。母は何故この男に惚れたのだろうか。
父がテーブルを離れるのを見計らって椅子に座ると、冷めたエッグトーストがラップに包まれて置かれていた。また右側にあるカップには、お湯を入れる前のインスタントスープが袋のまま入っていた。スープ粉が溢れないように袋を開け、電気ポットで湯を沸かす。待っている間にテレビを付けると、朝の情報番組が放送されていた。政治家の話や、事件があったことなど、毎日同じニュースばかりでつまらない。市民の私たちは話のネタにしかできないだろうから、ニュースの存在意義があまりないような気がしてきた。
ボーッとしながら見ていると、ニュースキャスターが話し終えるタイミングでポットが沸騰する。頃合いを見てカップに湯を注いだら、冷蔵庫から牛乳を取ってコップに注いだ。右手にスープ、左手に牛乳を持って席につくと、リモコンで番組表を見る。この時間はニュースか通信販売しかないようだった。仕方なくスマホを開いて、チャンネル登録しているアカウントの動画をスクロールする。偶然目に入った先月のライブ配信を選び、再生ボタンを押して朝食と向き合った。しかし、サムネイルのタイトルに惹かれたものの、冒頭からあまり面白みのなさそうな内容が伺える。また長尺動画を探すのは面倒なので、そのまま閲覧を続けることにした。
『――さて、ここで視聴者リクエスト!メンバーの好きなもの、集めてみたーー!』
わざとらしい拍手と共に画面がローテーブルに集中する。そこには様々な物が並べられており、数年前に流行った当時最新のゲームだったり、ペットや景色の写真などが見受けられた。その中でカメラがズームしたのは、ある一冊の本だった。
『えっえっ、なんか本あるんやけど、誰なん!?』
『なになに……"雨と待宵"?なんか恋愛小説っぽいなぁ。誰なん?ホンマに』
笑いながらトークをする二人組の横で控えめに手を挙げたのは、髪を紫に染めた柔らかな印象のメンバーだった。普段の彼はあまり本を見るタイプではないように見えたからか、コメント欄は想像通り荒れていた。混乱するコメントの中には、想像通りだと宣う嘘だか本当だか分からない輩も存在した。
『ユノ!?えっ、ウソ、なんでなんで!?』
紫の髪の男、通称ユノは周りの圧に押されながらもにこやかに話し始めた。
『えぇ…そんな驚くこと?……まーいいや。ええと、理由は単純に、俺、この小説の作者のファンなんスよ。中2からなんで…だいたい7、8年くらい経ちますね』
『おい、歳バレるバレる(笑)』
リーダー格の金髪の男がユノにツッコミを入れる。それに同調してメンバーやコメントが笑い、次の物品の説明へと移行していった。
ふと、速さが丁度良いなと思った。今思えば、このグループをフォローしたのは、こういったテンポの良さに惹かれたからかもしれない。
「……ごちそーさま」
私は空になった食器をキッチンに持って行き、シンクに置いた。配信はそのままにして、服の袖を捲り、スポンジに洗剤を染み込ませる。食べ終えた最後の人が片付けるのが、この家のルールだ。幸い、朝だからかあまり洗い物がない。すぐ皿洗いを終えて、宿題という面倒事を片付けてしまいたかった。残っているのは割と苦労せず終えられそうな教科なので、良かったと思う。
最後の食器を洗い終え、手を軽く拭いてスマホのライブ配信を切る。いつの間にか内容が変わっており、横目で見えた画面のユノは、端の方で愛想笑いをしていた。
問題集最後のページを終えると、予想していたより時間が経過していたことに気づく。何度目を擦っても、部屋の時計は変わらなかった。午後1時。とっくに昼食の時間は過ぎているのに、あまり腹は減っていなかった。
小さく伸びをしてベッドに腰を下ろす。ベッド横の窓からは、明るい子供たちの笑い声が聞こえていた。気づかれないようにカーテンの隙間から様子を覗う。
「あっ!滑り台してから帰るー!」
「いいね。じゃあちょっと休もうか」
幼稚園児くらいの男の子が母親の横で公園を指差した。母親は慈愛の表情を浮かべながら男の子と公園に向かう。私はその一連の様子を見て、午前3時の出来事を思い出していた。
『夕方5時30分から私はここに来る』
まだ十分に時間はある。それなのに、まだかまだかと心臓が慌てている。彼にはどこか人とは違う何かを感じていた。その正体はうまく言い表せられないが、それが私と似た形をしていることだけは確かに感じられた。
ボーッとしていると、控えめな腹の音が鳴った。昼だと自覚したことが原因で、体は昼食を欲していた。
確か一階のキッチンには、調理で余った具材やスーパーの惣菜などがあったことを思い出す。しかし今はそれらを消費する気分ではない。かといって、今から作るのでは体が待ち切れないだろう。
私は財布を持って立ち上がった。少し歩くが、近くに美味しいラーメン屋があるのだ。空腹を満たすには丁度良い量で、たまに足を運んでいる。
スマホを起動し、家族グループにメールを打つ。『ラーメン屋行ってくる』と送信すると、少し遅れて既読がついた。
『気をつけてね』
『いってらっしゃい』
母、父の順にスタンプが送られてくる。内心どう思ってるのだろう。食器の片付けをさせるつもりだったから残念がっているのか、ラーメンを羨ましがっているのか……まぁ、何にしろ、今の自分には関係ないか。
無駄な思考を脳の隅に追いやり、部屋のドアに手をかけた。
がらがらと扉が大きな音をたてる。それなりに古いので、少し開けづらく、下手をすると力加減を誤りそうでヒヤリとする。
「……らっしゃい」
少々顔の厳つい店主が挨拶をする。私はそれに「こんにちは」と返してカウンター席につく。店内は空いていて、私の他にいるのは近所で見かける50歳くらいの男性しかいなかった。
「すみません。もやし醤油ラーメン一つ、お願いします」
「あいよ」
店主は小さく呟くと、カウンターに氷の入った麦茶を置いてラーメン鉢を後ろの棚から出した。
ラーメンができるまでの間、静かな店内で響くのは古い埃塗れのテレビ音声。画面内では、淡々とニュースを読み上げる女性アナウンサーが手元の紙を捲りながらこちらを見ていた。
『本日未明、俳優の湯田アキラさんが自宅のマンションで亡くなっていたことが判明しました。現場の状況から、警察は自殺と見て引き続き捜査を進めています』
画面が代わり、俳優の顔が映された。最近の写真で、とあるエンタメ番組で見せた笑顔が切り取られている。
『亡くなった湯田さんとドラマで共演した榊田魁斗さんは、"あまりに急な出来事で言葉が出ない。今はただ現実を受け入れるのに精一杯"とブログで明かしま』
そこで音声が切れ、笑い声が響く画面に変わった。店主はニュースを気に入らなかったのか、ギトギトのリモコンをテレビに向けて、無理やり他の番組に切り替えたのだ。常連の客はその様子を見て溜息を吐いた。
「……どいつもこいつも、若ぇ奴ほどすぐ死にたがる。どうなっちまってんだぁ?今の日本はよォ……」
背中で感じる常連客の面倒な視線に、気づかないようにしてカウンターに置かれたラーメンを受け取った。
気分を切り替えてラーメンを見る。醤油ベースのスープは透明感があって浮いている脂も煌めいている。麺は細く滑らかで、つるっと口に入ってきそうな気がする。トッピングは半分に切られた半熟卵と海苔、そして中心でもやしが小さな山を作っていた。
「いただきます」
まずはスープから一口。出来立て熱々のスープは火傷しそうなくらい熱いけれど、上手く食べれば空腹を刺激して格別に美味しい。思わず二口、三口と飲みそうになるが、次に麺を箸で掴む。箸に凹凸があるので麺はあまり滑らずに留まっていた。ずず、と啜れば予想した通り、すぐ口内に収まってしまう。下手をすれば噛まずに飲み込んでしまいそうだ。啜った麺の隙間からはスープが溢れ、噛めば噛むほどもちもちとした麺の食感が楽しい。
『さて、今回は春の花粉症対策として、売られている商品を5つ紹介します!花粉症といえば咳や鼻水、目の痒みなど、様々な症状がありま』
店主は急いでテレビを消した。ご飯を食べる場所で汚いことを連想させるのは良くないと考えているからだろう。常連客はからからと笑った。
「おぅおやじ、今日は特に忙しいなぁ!」
その後、常連客が店主と話し始めたので、ラーメンの味はあまり記憶に残っていなかった。
店を出たのは午後2時30分。暇を潰すため公園に寄ろうかとちらりと見てみると、ベンチにやたら怪しい人影があるような気がして、確認のため道路を渡って反対車線に歩く。
公園の手前まで来たところでその人影がこちらに気づいた。
「やあ、また会ったね」
スマホを片手に微笑を浮かべ、やたら体格の良い男。衣服の違いを除けば、深夜3時に会った不審者その人だった。
「……不審者」
「心外だな。以前も言ったが、私はただの小説家だよ。それに、本物の不審者なら、こんな時間にわざわざ不審者ぶらないだろう」
自らの潔白を証明するように男は自嘲する。流れる様な男の目線につられて周りを見てみれば、今にも通報しそうな顔で大人が男を睨んでいるのが見えた。
「ね」
男の左眉が少し下がり、乾いた笑いを漏らす。その様子に同情しそうになる私は、なんて軽い女のだろうか。
「……凄く目立っているじゃないですか」
危うく大人と目が合いそうになり、男に視線を戻す。口から出てきたのは、男に対する微かな苛立ちだった。
「巨漢と少女が共にいては、一般人は良くない妄想を掻き立ててしまうだろうな。…目立つのは嫌いかい?」
私は縦に首を振る。自分の良い行いで目立つのは受け入れるが、それ以外で目立つのは些か受け入れ難いものだ。
「なら、少し私の話に付き合ってくれないか」
男はスマホを片手で操作して、とあるネットニュースを見せた。それは昼頃に流れていた俳優の訃報だった。
「暗い話だけれど……"自殺"について」
学生になんて議題を持ちかけるんだ、という言葉が喉元につかえた。その感情は顔に出ていたらしく、男は我に返って気まずそうに首を掻いた。
「…っああ、すまない。初めに持ちかける話ではないことはわかっているんだが……つい、君と議論をしてみたくてね」
男はまた自嘲的な笑みを浮かべた。彼は、典型的な人と話すのがが苦手なタイプかもしれない。そう思うと、(失礼に値するが)この男が哀れに見えてくる。
「……一般的に、自殺はしてはならない行為らしいです。ですが、それについて、私は違和感を持っています」
男は目に光を取り戻し、真剣な表情でこちらを見ていた。私はその熱から逃れるように視線を合わさず、遊具で遊ぶ子供らを見やった。
「なぜなら、自殺をした人は自殺しなければならない理由があるのに、それを他人はあっさりと無視しているからです。おそらく、聞きたくないんでしょうね。死は汚くて恐ろしいものですから」
男は頷いて私と同じ方向を見た。ただ、見ている者は違っていそうで、男の眉間に少し皺ができる。
「そうだね。それに、他人の死に"可哀想"っていうのは、他人事だと感じたいからだろう。自分は絶対にそうならないと信じてる。社会も"他人事である事"を強要するから、世界は狂信者だらけだ」
彼と話していると、世界を敵に回している気がしてくる。なんだか悪い事をしているような罪悪感と、胸が高鳴る気持ちが交差する。
何度か議論を重ねていると、彼が笑う回数が増えていった。君と議論がしたい、というのは本当だったようだ。
いつの間にか議題は白熱し、気がつけば辺りには人が殆ど居なくなっていた。
「……そろそろ終わりにしようか。こんなに議題が続いたのは初めてだ。議論に付き合ってくれてありがとう」
彼は仄かに頬を染めた状態でため息をついた。大変満足しているようだった。それほど議論をする相手がいなかったのかもしれない。私はというと、今までで一番会話したのではないかと思うほど疲弊していた。これほど頭を使って会話ができたのは初めてだ。帰ったら数分も持たずに寝てしまうだろう。
「流石に疲れてしまったかな。今日のアルバイト料は3千円でも良いかい?」
財布に手をかける彼に、眠気を堪えながら首を振る。
「お金なんていりません。その代わり、次からは飲み物を購入して頂きたいのですが……」
男は財布をしまい、口角を上げた。
「確かにそうだね。喉が乾いて仕方がない。事前に私が用意するけれど、希望はあるかい?」
私は少し考えた後、「……自分で選びます」と思考を外に投げ出した。