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あなたは水蒸気  作者: Motya
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午前3時の災難

 3月といえば、進学シーズン真っ盛り。どの学校も賑わうほどの最初の学業に思いを馳せながら、私は重い瞼を上げた。外は気持ちの良い風が吹き、今にも咲きそうな桜が花弁をこじ開けている。明日には満開だろう。そのうち、黄色い背中がはしゃいで道路を歩くのが想像できる。私は小さく、いいなぁ、と呟いた。その拍子に傷んだ喉に痰が絡み、咳をする。異物が消えるまで何度か咳き込むと、私は大人しくすることを決めた。入学式早々休むことになることが、目に見えてわかっていた。溜息でも吐きたい気分だったが、どうにも痰が気になってそれどころではなかった。

「あんた、大丈夫?そんなんで、入学式行けないんじゃないの?」

 人を焦らせるように上下する母のトーンに、内心嫌気がさしていた。まるで風邪を引いた私が悪いみたいな、風邪を早く治せと迫られているような気がして、私は無視を決行する。母はそれを喉が痛いからだと解釈したらしく、小言を言いながらも部屋の扉を閉めた。

 階段を降りる足音が遠のいてきた時、私は歯を食いしばってシーツを握りしめた。何故だかわからないけれど、猛烈に悔しかった。これが母の言う"反抗期"なのかもしれないし、高校生になるにつれ出てきた自我なのかもしれない。とにかく涙が出るほどに悔しかった。

「……っ嗚呼もう……!」

 苛立ちを抑えるために目を瞑り、仰向けに寝転がる。目の縁から流れた涙が冷たい。グズって泣くだなんて、子供みたいだ。高校生になるには、代償として子供らしさを捨てなければならない。いつまでも子供ではいられないのだ。だから、私は早く大人になりたいと願う。気分が落ち着いてくると、瞼が重くなるのを感じていた。



 靄のかかった世界で、私は立ちつくしている。珍しく意識がはっきりとしていた私は、これは夢だろうと冷静な判断に至った。ただ、いつもより触覚や嗅覚が鈍いため、恐らく記憶に存在する世界ではない。いわばこれは私の完全な空想だ。

『ねぇ』

 背後から声が聞こえた。聞いたことはあるが、はたして誰だったかは思い出せない。顔を見ようと振り返ると、眼前に靄がかかる人物が立っている。

『ねぇ』

 その人影はもう一度口を開いた。幼い口調で話しかけてくる声は、記憶を撫でてすぐ消える。はて。一体何処で聞いたのだったか。

『……失礼ですが、どなたですか』

 こういう時は、取り敢えず聞いてみるのが吉だろう。知ったかぶりはボロが出やすいし、何も言わないのも失礼になる。私が問うと、相手は数秒経ってからこちらに手を伸ばした。だが、なんとなく嫌な予感がして、咄嗟に避ける。

『わたしはね、わたしはね』

 ()()の声は、まるでラジオのような耳障りな音をしていた。そして、録音した音声のように同じ抑揚と音程で二回繰り返される。

 不気味だった。人間じゃないと思った。でも、人間だと感覚で理解している。意味がわからない。

()なら、知ってるでしょう?』

 気づけば彼女は目と鼻の先にいた。驚きのあまり瞬きをすると靄が消え、代わりに見えたのは自分の顔だった。



 寝ながら呼吸を制限していたようで、息苦しさで目が覚めた。心臓の音が耳の奥から聞こえ、天井が歪んで見える。辺りはまだ暗く、枕元にあるスマホを覗くと午前3時と記されていた。

「…………眠れない」

 瞼を下ろす度に先程の夢が映る。年甲斐もなく、あの夢が怖いのだ。こんなことは両親には言えないと、なけなしの私のプライドが叫んでいた。

 ふと、カーテンから外を見てみる。暗い道路には、人どころか車の影さえ見当たらない。こういった夜道はそそるものがある。口腔内の唾液を飲み、気持ちの昂るままにベッドから上半身を離す。とっくに熱は下がっていたようで、喉の痛みも引いていた。私は額のシートを乱暴に剥がすと、ゴミ箱に半分にして投げ入れた。心臓が体を動かしたいと叫んでいる。私はスマホだけを持ち、両親に気づかれないようにそっと二階の階段を降りた。


 玄関のドアを開くと、昼間とは違う世界が広がっていた。空気は冷ややかで、深く吸うと肺が冷えるのがわかる。でも、寝起きで熱かった身体には丁度良かった。道路を右に曲がった先の交差点辺りを見ると、いつも横を通る公園がうっすらと視認できる。昼間は近所の子供や大人が多いのだが、今は広いだけの空き地になっている。どこか寂しい気がするそこは、何かが出てもおかしくなさそうだと思えた。

 スマホで時間を確認する。今は少し前に見た時間からさほど経過していない。行くなら今なのではないだろうか。

 思い切って右足を前に出すと、誘われるように左足も進行方向へと向かった。そのまま家の敷地を越え、道路に出る。スマホのライトでアスファルトを照らすと、外の暑さで焼けたミミズの屍が2、3匹倒れていた。「うわっ」と、思わず踏んでしまいそうになる右足を下げる。思ったより大きな声が出てしまい、周りを見渡したが先程と景色は変わらない。ミミズの位置を確認してから、ほっと胸を撫で下ろした。

 もう一度公園を見る。驚いたことに、今の一瞬で公園のベンチの街頭が付いていた。心臓が大きく跳ね、地面を照らすスマホを起動させる。時刻は午前3時20分。誰もいない筈の公園で未知のモノが出ても、何もおかしくはない時間だ。

 急に悪寒がして、両手で身体を抱いた。脳内が混乱し、『どうしよう』で上書きされていく。だが別に帰りたいとは思えなかった。怖いもの見たさで見てみたいというのが、思春期真っ只中である15歳の、率直な感想だった。

 足を踏み出す。ミミズを踏んでしまったのか、霜柱を踏んだような音が響いた。しかし、自然と足元に視線は向かわなかった。



 真夜中の公園は、周りの遊具が一層恐ろしく見える。ブランコは揺れていないか気になるし、スプリング遊具は塗装が剥がれているせいで謎の迫力がある。

 周囲を見渡していると、街頭が光る下にベンチがあることに気がついた。ベンチには体格の良い2、30代くらいの男性が座っていて、無心でスマホをスクロールしていた。ブルーライトのせいで青白い顔をしていて、心臓に悪い。

「……やぁ、ずいぶん早い起床だね」

 後退りしようと公園の砂を踏んだ音で、男性がこちらを向いた。私はスマホのライトを付けたまま、男性を睨んだ。

「警戒心が猫みたいに強いんだね。当然だけど、大事なことだよね」

 男性はベンチの背もたれに体重を預け、真っ暗な天井を指さした。

「そういえば、君は知ってるのかな?星についての豆知識」

 私は首を傾げた。男性は上を向いたままで、無言を会話を繋げる合図だと受け取った。

「星座絵ってあるでしょ?星座の形を表した絵」

 男性は空をなぞり、意味もなく微笑む。星座絵を書いているんだと理解するのに、さほど時間は必要なかった。

「ネットで見たのはオリオン座なんだけど、国際天文学連合と88星座図鑑とでは、少しだけ星座絵の形が違うんだ」

「…それに意味はあるんですか?」

 私が質問をすると、男性は目線を落としてベンチに座り直した。その表情はあまり変わらなかったが、動揺したのが目に見えてわかった。

「意味、ねぇ……ないかもしれないし、あるかもしれない。結局、現代の人々はほとんど空を見る機会がないんだから、何とも言えないなぁ」

 男性は頭を軽く掻いた。そしてスマホをズボンの右後ろのポケットに突っ込むと、左後ろのポケットからメモ帳とペンを取り出した。ぱらぱらとメモ帳を捲って空きページを探す。何回か往復して空きページが見つかると、そこに彼はミミズのような字で走り書きをする。

「良いね、すごく参考になる。それに、意味を求めるというのが、実に現代の若者らしい」

 なんだか貶されている気がして目を逸らす。彼はその様子を見て、また微笑んだ。

「ごめんね、馬鹿にしていると思われたかな。私は人との会話が長続きしないんだ。人間じゃないからね」

彼は鼻の上を触った。私は失礼に当たらない言葉を考えて暫く返答に困っていたが、訪れた気まずい空気に耐えかねて、とうとう吹っ切れてしまった。 

「……じゃあ、貴方は何なんですか」

 半ば投げやりな口調になってしまい、瞬きが自然と増える。ちらりと彼の顔色を覗うと、数秒目が合ってしまった。動揺してすぐ近くの大木に目を逸らす。その大木は桜だったようで、連日の強風でいくつか開いた花弁が散っていた。

 突然、掠れた笑い声が聞こえた。授業中に後ろの方で男子が悪ふざけをしているような、笑うことを我慢している笑い方。驚いて声の方向を振り向くと、彼が口元に手を押し付けて笑っていた。

「本当、何だろうね。あ、水なんじゃないかな?」

彼は公園に設置されている蛇口を見てそう言った。なんと安直な、と思ったけれど、まぁ人間の6割は水分なのだから、否定はできないかもしれない。

「ふざけないでください。それに、私の目には貴方が不審者にしか見えません」

 改めて彼の身なりを見る。彼は黒い無地のTシャツの上に灰色のアウターを羽織り、真っ黒なカーゴパンツを履いている。こういった普段街に居そうな男が犯罪をするケースが多い。

「それはどうも。こんな男の何処が不審じゃないんだってくらいには、理解しているつもりだよ」

 彼は両手を広げて肩を竦めた。私はますますこの男性が怪しく見えてきた。もしかしたら、危険な薬を売りさばく密売人なのかもしれない。私はスマホの電話アプリを開いた。親指で数字をタップしようとすると、彼がそれに気づく。

「通報するほどではないよ。何を隠そう、私はただの小説家なんだ」

 そう言って彼はメモ帳とスマホの画面を見せる。どちらも彼の手中にすっぽりと収まってしまい、私の手とは全く比べ物にならないことがわかる。目線を画面に向けると、そこには文字だらけのアプリ画面が映っていた。メモ帳には、その小説のヒントになりそうな走り書きがミミズのような字で書き記されている。

 なるほど。ついさっき書いたならばここまで書けるはずはない。以前からこの手口を使っている可能性が浮かんできたが、それが出来ていたら公園でわざわざ怪しい人間を演じる必要がないように思える。

 でも、あまり油断は出来ない。今はどんな誘拐方法があってもおかしくないのだから。

「そうですか。では、どんな作品を書くんですか?」

 メモを見た限り、名言とか豆知識が多かった。想像できるのは、小説というより、名言集や雑学本だろうか。因みに、スマホ画面の方はざっと見た感じだとよくわからなかった。使われている熟語も聞き慣れないもので、理解し難い。

 彼は恥ずかしそうに目を逸らし、人差し指で頬を掻いた。続いて、話しづらそうに足を組む。

「……恥ずかしながら、恋愛小説をね」

 私はすぐに返事をすることが出来なかった。先程見たスマホ画面をちらりともう一度盗み見る。最初の一文は季節を知らせる文言らしいのだが、何行にも渡って書かれていて分かりづらい。一般の女生徒ならば、数行見ただけで本を投げ出すだろう。

 つまるところ、これはクラスの女子が好んで読むようなときめくライトノベルではなく、論文のような難解な小説だった。

「……えと、エイプリルフールはまだ先ですよ」

 そう言うと、彼は眉間に皺を寄せて笑った。気分を害してしまった、というよりは、意見の一致を喜んでいるように見えた。

「んー、やはりそう思うかぁ」

 彼は再度2、3秒スマホを睨み、ゆっくりと肺に溜めた息を吐いた。どこか疲労困憊といった様子で、小説家とは大変な職業だなと実感した。

「……君、国語は得意?」

 気を抜いたせいでベンチから長い脚をはみ出させた彼が言った。ジムにでも通っているのか、程よい筋肉がついていて健康的に見える。

「……得意だと自負しています」

彼は微笑んで、「謙虚だね」と呟いた。そもそも、自信満々にそんなことを言う日本人なんでいないだろう。私もその一人だと思うし、今までの人生で本当に自分に自信がある人に会ったことがない。

 彼は姿勢を正し、まるで社長のように指を組んだ。何か交渉を持ちかけられるのだと、野生の勘が言っていた。

「じゃあ、私の小説の手伝いをしてくれるかな?」

 彼は手持ち無沙汰にスマホ画面を眺め、続けてこう言った。

「夕方5時30分から私はここに来る。だから、君は一日につき一つ、私と議論を交わしてくれないか?」

 これが誘拐の文句の可能性だって大いにあった。ただ一つ問題だったのは、私がその誘いを魅力的に感じてしまったことだろう。一日一つならば大した時間を要さないだろうし、この公園は夕方ほど混みやすい。それらの条件を言い訳にして、私は頷いた。

「私が力になれるのは一部だとは思いますが、やらせていただきます。決して貴方を不審者として見ていない訳ではないので、覚えていただけますと幸いです」

「わかってるよ。取り敢えず、契約成立だね」

 彼が手を差し出して来たものの、私はその手を拒んでお辞儀をした。

「頑なだね」

 彼は私の様子を見て瞳孔を拡大させた。そして、差し出した手をベンチに置く。

「ありがとうございます。それでは、また」

彼は微笑んで手を振った。私はそれを横目に見て会釈をし、わざと回り道をして帰路についた。

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