65.氷点 3
郁の瞳は冷たい。
恵太の穏やかでたおやかで・・・しかし強い眼差しとは真逆に
ハコモノだけの、無機質なカーブ。
郁のその表情に・・・その炎に焼かれていく。
冷たく、冷たく。
氷点に達した怒りは、絶対零度へと向うのみ・・・。
選択肢がない事は泰次にも分かっていた。
恵太の相手がただの一般人ということではなく、
二人が教師と生徒という関係だと分かった以上こんなにリスクの高いことはない。
それなのに郁がこのネタを提示し、スポンサーの一つとして自らの社を差し出した理由は
唯一つ・・・。
恵太を監視することによる恵太への圧力と、二人の物理的な接点を避ける
既成事実。
これを欲していることは明らかだ。
万が一、本当に撮られたらマスコミは面白おかしく書き立てるだろう。
初々しい清潔感のある恵太と小鳩のイメージとストーリーを買ってくれたスポンサーは
一気に手を引き損害賠償問題へと発展する。
映画は公開できないまま。
泰次とその事務所は莫大な借金を背負い、そんな泰次に映画を撮らせてくれる
物好きがいると考えるのは厳しいことは安易に分かる。
そして、恵太と亜子は完全にその人生そのものを失う。
そんな危険なイメージを持たれてしまったら恐らくこの世界では生きていけない。
逆風が吹き出したら一気に転がり落ちる。
甘い世界ではない事は自分自身が肌を持って知っているし
足掻こうとも消されてしまう人間を何人も見てきた。
引き剥がされた者は自ら去った者と違い、
その後も纏わり付いてくる影から逃げるように、
隠れるように生活することを強いられることが多い。
下手に名が売れていたら尚のことだ。
一方の亜子も亜子で地獄だろう。
たぶらかしただの淫乱だの背びれ尾びれが付いて
本人を置いて話だけが一人歩きしていく。
いくら本人同士が真剣で愛し合っていたといっても
世間はそうは取らない。
ましてや子どもを教育する立場の人間だ。
そんな教師を雇ったと知ったら、在校生の保護者は黙ってはいないだろう。
著名なOB・OGが出ていたらそこからも容赦なく抗議の嵐で。
誰がそんなリスクを負ってまで、新人の一介の教師を雇うだろうか。
恐らくもう、二度と教壇には立てないだろう。
他の職業でうまく立ち振る舞ったとしても、そういう話はどういうわけか
誰かが仕入れてきて一生逃れることは出来ない。
否が応にも、見えすぎてしまう未来。
もし首を横に振れば、郁は自らこの写真を売り込みに行くかも知れない。
いや・・・嫉妬に狂っている今、二人を壊すためなら迷わず行くと感じた。
尤もらしい理由をつけて。
そして灰となった二人を救う振りをして
ゆっくりとゆっくりと、凍らせていくのだろう。
完全に方向を誤った郁を、もはや自分は制御できない。
だとしたら今、泰次に出来ること・・・。
それは郁の監視を受け入れ、降参した振りをしながら
郁が変な動きをしないように
逆に監視するよりほかないと思った。
そうと腹が決まれば、演じ手に回るしかない事は
職業柄瞬時に理解できた。
敗北感を感じている人間として自分を作り上げる。
その視線に冷たく焼かれ、静かに目を閉じる一人の男として。
(小鳩・・・怒るだろうなぁ・・・)
全く別のことを考えている泰次に気が付くはずもなく
郁はその様子にクスリ、と笑いを一つ転がした。
「やっぱりあなたは賢い人だ。
今度はもっと、いいオトモダチごっこが出来そうですね」
そういって差し出す郁の掌を無視して泰次は立ち上がった。
(冗談じゃねぇ。・・・こうなったら、とこっとん!やってやろうじゃん)
泰次は今まで我慢していた煙草に火をつけると
その害煙を一気に肺まで届け、神経の隅々まで運んだ。
「そうですね。あんたは恵太と違ってものすごく性格がいい」
腹の底からわいてくる嫌悪感を込めて、紫煙を吐き捨てる。
扉へと向うと勢いよく開け、満面の作り笑顔で郁の退室を促した。
そんな泰次の宣戦布告を知ってか知らずか。
腹立たしいほどゆっくりした所作で仕度を整え、
立ち上がった。
「恵太と似てないって、よく言われるんですよね。僕」
控え室を出る間際に立ち止まり、にっこりと微笑んだ。
「それは良かった。あんたに似なかったおかげで
どうやら才能があんた以上に・・・いや、凡人の何倍も伸びたようだ」
口の端で咥えたままの煙草。
隙間から実際の色以上にドス黒い煙を燻らせながら微笑んだ。
その言葉に一瞬目を見開いた郁だったが
すぐに前を向き直り、何事もなかったように無言で泰次の横を通り過ぎた。
「いい映画にしますんで!スポンサー枠で試写会ご用意しておきますね」
遠ざかる背中にそう声をかけたが
結局郁は一度も振り返りはしなかった。
(負けてたまるか・・・)
再度含んだ紫煙を吐き出しながら
泰次は柄にもなく恵太と亜子、そして小鳩を守ろうと決意を新たにしていた。
この日を境にスタジオに郁が足を運ぶようになり、
泰次を中心に、郁と恵太に関わった人間が
氷点下の世界へと手招きをされていくこととなる。