63.氷点 1
『助監督が背後から近づくとロクなことは起こらない。』
これが曲がりなりにも監督業を生業としている泰次の行き着く感想だ。
それは文字通り、後ろからそっと耳打ちされる情報は概していいものではないということもだが
音も立てずに忍び寄るものはいつの時代もお化けか犯罪者か、悪夢と相場は決まっている。
そして今も多聞に漏れず、その類だろう。
「・・・なぁ、今思いっきり押してるの分かってて俺に声かけてる?」
煙草を咥えたままギロリと鋭い目つきで振り返ると
背後の助監督、林田一平は怯みながらも泰次の肩に手を置き、前後に揺さぶりつける。
一平は泰次より6つ年下の28歳。
小さいころから野球少年だったというだけあって
体育会系の熱血漢だった。
短髪にTシャツから良く焼けた肌が露出している。
小柄ながらも引き締まった体は今でも暇さえあればランニングをしたり、
バッティングセンターへ出向いている賜物だった。
情に脆く感情移入しやすいため、撮影しながら感極まって泣き出した一平の嗚咽を
マイクが拾ってしまいNGになってしまったという逸話の持ち主だ。
監督としてはまだまだ未熟で使えないタイプだったがその懸命な姿勢や
憎めないキャラクターで、泰次は柄にもなく一平を育てているところだった。
大学を中退して地道に下積みを重ね、今回が初の助監督作となる。
そんな無駄に熱い、常にオーバーヒート気味な一平であることを差し引いても
今の様子はこの緊迫した撮影状況では明らかに不釣合いなものだった。
「分かってます、分かってますけど緊急事態なんです!!」
「何がだよ。だったらここで言えよ!!」
思わず声を荒げた一平に、泰次もついカッとして応戦してしまった。
一瞬のうちに視線が泰次と一平に集まる。
ただでさえ撮影が押していることや機材トラブル、役者も繁忙期になり
遅刻なども増え、泰次は疲労困憊、イライラもマックスだった。
しかし耳打ちされた言葉を聞いた途端、泰次は怒りを忘れ
背筋に冷たいものが一気に流れ落ちていくのを感じた。
「・・・それ・・・本当か?」
自分でも信じられないくらい、低くか細い声が出て驚いたが
今はそんなこと誰も構いはしなかった。
「ホントです。僕も今確認してきました。それで先方が・・・」
「来てるのか」
一平は言葉もなくコクコクと何度も首を上下に動かす。
改めてその顔を見やると、汗が噴出しているのに顔面は蒼白で
とても嘘や脅しに踊らされている欠片さえ見受けられなかった。
「と、とりあえず使ってない控え室にお通ししたんですが・・・」
「・・・チッ」
舌打ちを一つ転がすと、吸いかけの煙草を乱暴に灰皿に押し付け
今しがたまで自分が座っていたチェアーを蹴り倒しながら立ち上がり
出口へと向った。
現場スタッフたちは、泰次の余りの剣幕に物音一つ立てる術すら失い
当事者去ったその後も、ただぼんやりと消えた背中を見つめていた。
眉間に深くシワを作りながら、雑然とした廊下を歩くスピードは無意識のうちに加速されていく。
「それで、間違いなかったんだな」
後ろから慌ててついて来る一平を振り返ることもせず、そう問うと。
「間違いないも何も、あんなにはっきり写っていたら・・・」
周りを気にしてか声を落としながら小走りに泰次に近寄る。
(くそっ!!)
心の中で悪態をつきながら先ほどから耳に残って離れない
一平の言葉がご丁寧にエンドレスリピートされていくのが
心底気持ちが悪かった。
『恵太が週刊誌に撮られました。監督と話したいと仲介者とおっしゃる方が・・・』
自動再生を止める術もない泰次は一つの扉の前に立つと
一つ深呼吸をして息を整えた。
隣でオロオロと挙動不審に動く一平の頭をバシーっと叩き
ギッと睨みつける。
一瞬、頭を抱えた一平だったがすぐに姿勢を正し、コクコクを小刻みに頷いた。
一平が震える手でドアをノックする。
同時に「どうぞー」と、少し間延びした穏やかな声が中から届けられた。
その穏やかさがこの状況では逆に気味が悪かった。
泰次は一平と目が合うと顎を少しだけ動かし合図した。
一平が頷いてドアを開ける。
泰次が無言のまま中へ入ると、そこにいた人物はソファーから立ち上がった状態で
にこやかに微笑んで出迎えてくれた。
この場にそぐわない、完璧なまでの笑顔。
その感情のない空無な笑顔に、ゾクリと不快感が駆け巡る。
(こいつ・・・どこかで・・・)
そんな違和感を感じている泰次に構うことなく
その人物は相変わらず笑顔を崩さないまま手を差し出し、握手を求めてきた。
「初めまして。
いつも 『弟』 がお世話になっています。
諫山郁です」
刹那、泰次は目を大きく見開き拳を固めた。
背筋を気のせいなんかではなく冷や汗が流れていくのがはっきり分かった。
「・・・松浦監督?」
一平に声をかけられ、その視線が自分の拳だと気が付き
そこへと視線を移すと知らぬ間に震えている自分の躯体があった。
泰次はその片方の拳を緩やかに解く。
人間の体はなんてうまくできているんだろう。
この数秒の間に泰次のそこは汗でじわり、不快な空気をはらんでいた。
「・・・なるほど・・・そういうことですか」
ふーっと一つ息を転がしながら小さく呟くと、顔を挙げ一平を指差した。
「・・・一平、お前現場戻れ。1時間休憩入れるぞ」
「で、でも・・・」
「いいから戻れ。この人は俺に用があるんだ。
お前はロケハンと明日の調整して
各チームに連絡入れろ。
もたもたすんじゃねーぞ」
動揺を隠そうとするがために、いつもより格段に低く抑揚のない声色になっていたが
今はそんなことに構っている暇はなかった。
指示を受けた一平は浅く頷くと、すぐにその場を離れようとした。
「一平!・・・このこと誰にも言うな。俺個人の急な来客とだけ言え」
扉に手をかけたままの一平は、振り返ると泰次の目をじっと見つめた。
今度は深く頷き、一度だけ郁を見ると頭を下げ部屋を出て行った。
一平が出て行ったそのドアが閉まる音がやけに大きく響いた気がした。
ほんの僅かな沈黙の後、泰次が郁のほうへ向き直すと視線がぶつかった。
相変わらず、感情の欠片もない虚無な笑顔。
しかしその瞳には蒼白い炎が確かに宿っていた。