60.張り巡らされる糸
ほどなくして2学期が始まった。
同時に郁は英恵学園の職員として正式に生徒たちにも紹介された。
どうしても撮影の都合がつかず、始業式を欠席した恵太。
そんな中、郁は完璧な笑顔を湛え、
「初めまして。諫山郁です。
学校全般の広報などを担当するのでみなさんとは直接授業などではお会いしませんが、
生物の教員免許を持っています。
学園生活で何か困ったことがあれば、気軽に職員室へ話に来てください。
以前は予備校に勤務していましたので、進路の相談などにも乗れるかと思います。
国理にいる弟ほど格好良くはありませんが、僕とも仲良くしてください」
と挨拶し、生徒たちに少しの笑いと強烈な印象を与えた。
広報部長という肩書だが理事長の息子で後継者。
郁が実質的には父親の補佐をしながら勉強を積むということは、
職員誰の目にも明らかだった。
その柔らかな物腰と、目を引くルックスで
生徒たち…特に女子生徒の話題をさらい、
あっという間に人気者となった。
郁の言葉通り、周りは進路相談と称した生徒たちでいつも賑やかだった。
それは当然恵太にも影響を与える訳で…。
「ねぇ、諫山君!」
慌ただしい撮影の合間をぬって登校した恵太。
始業式から数日後にやっと登校した恵太。
靴箱で上靴へと履き替えていると背後から聞きなれない声がした。
振り返ると、女子生徒数人がこちらに駆け寄ってきた。
見覚えのない顔。
恐らく他クラスか、他学科だろう。
「…何?」
「諫山君て、郁先生の弟なんだよね」
『郁先生の弟』
その言葉に、ピクリと体が反応した。
「…だとしたら、何?」
そんな恵太の様子など気にも留めず、お互いの顔を見ながらキャッキャと騒ぎながら頬を染める。
「あのさ、郁先生の誕生日教えてくれない?」
「あと、好きなものとか!甘いもの平気?」
「郁先生って、家ではどんな感じ?
てか、今度諫山君のうちに行ってもいい?」
興奮した勢いで矢継ぎ早に恵太に畳み掛ける。
「そんなの…」
恵太が俯き加減に発した言葉がうまく聞き取れなかったのだろう。
「え?なになに?」
一人の女子生徒が、じゃれ付くように恵太の腕に絡みながら聞き返した。
恵太はその手をさっと払い、ツ、と見下ろした。
「そんなの、本人に聞いたらいい。
俺には関係ないだろ?」
感情のない低く響く声に、その生徒は顔が強張る。
周りで騒いでいた生徒も動きを止めた。
恵太は乱暴に靴をしまうと
集団の横を通り抜けた。
「な・・・何よ!感じ悪ー!!
郁先生が言ってた感じと全然違うじゃん。弟超性格悪いしっ!!
身内だからって郁先生優しすぎー!!!」
我に返った一人がわざと聞こえるように大声を上げた。
「モデルかなんか知らないけど、チョーシ乗ってんじゃない?!
ちやほやされて天狗になってんだよ、天狗!!」
「ホントー!!お兄さんとは大違い!!少しは郁先生見習ったら?!
モデルなら郁先生みたいににっこり笑って見せろって。
兄弟なのにぜんっぜん似てないね!!!」
その言葉に後ろから切れ味の悪いナイフで無理矢理胸を刺されたような
えぐられたような気がした。
(・・・耐えろ・・・)
歩を止めてしまいそうになる自分に呟き、
大きく深呼吸してそのまま教室へと向う。
「なんか答えろよ!!弟!!!」
見えない古傷が開いて、じわりじわりと滲んでいく血液。
かさぶたになっては剥がれ、剥がれてはかさぶたになり・・・。
そんな古傷はちょっとした弾みですぐにまた、裂けて出血する。
もはやただの罵声に変わった雑音を
背中に受けながら久々に感じる痛みから逃れるように
足を速めた。
そんな様子を、少し離れた場所にある職員用靴箱から腕を組みながら
郁は心底愉快そうに眺めていた。
「やるねぇ。女子高生・・・上出来」
(馬鹿となんとかは使い方次第ってね・・・)
漏れる笑みを隠せず、にやりと笑う。
それを誤魔化すように口を覆い、深く息を吸ういながら顎まで撫で下げると
郁に特別に宛がわれた広報室へと向った。
2階の角にあるその部屋の戸を開けると
そこにはもう一人のターゲットがすでにいて。
「あ、おはようございます」
ターゲットは慌ててソファーから立ち上がると
ぺこり、と頭を下げた。
「おはよう。雛沢先生。ごめんね、遅くなっちゃって。
あ、どうぞ座って」
片手で雛沢先生・・・亜子を制しながら
ソファーの後ろを通り抜けデスクへ向う。
大きな目を少し伏せると
「失礼します」と小さく断ってまた腰を沈めた。
先日あんなことがあったばかりだ。
亜子の全身からピリピリとした緊張感が漂っていた。
あの日以来、まともに会話をしていなかったが
仕事という大義名分をかざして亜子を呼び出した。
上層部からの呼び出しとなれば、一介の教師に過ぎない亜子が断れるはずもなく
おとなしく指定された日時にその場所へいた。
「朝から悪かったね。どうしても朝のうちに済ませたい仕事なんだよ。
そのために雛沢先生にお願いがあって」
デスクの上に鞄を置き、上着を脱ぐ。
9月といってもまだまだ日中は暑かった。
「お願い・・・ですか?」
不思議そうな顔をし、首だけ郁に向ける亜子。
「といっても、もう決定事項なんだけど」
にっこり笑い、郁は亜子の向かい側に座ると
一つの資料をテーブル越しに差し出した。
「来年度の生徒募集のパンフレットの制作委員として僕の補佐をしてもらいたい。
教師代表で紙面にも登場してもらうつもりだからよろしくね」
亜子は資料を手に取ったまま、大きく目を見開いた。
「私が・・・ですか?
そんな教師代表なんて・・・困ります・・・。
もっとふさわしい先生方がたくさんいらっしゃるのに・・・。
私みたいな新人が・・・。
今はまだ授業展開など勉強しなくちゃいけないことがたくさんあるので・・・」
戸惑いの表情で郁を見つめた。
「もちろんベテランの先生にもお願いするけど、
こういうのは若い先生の育成にも力を入れていて
先生と生徒がお互いに成長し合っているっていう要素も
外部進学の学校や保護者からの好感度を上げるからね」
「はぁ・・・」
郁の言葉に俯くと、そのまま手元の資料に目を通しだした。
俯くと柔らかく巻いた髪が弾むように亜子の顔のラインで跳ねた。
それを耳にかける仕草は、郁が知っていた亜子よりも随分大人びていて。
可愛らしさだけでなく、時に漂う色香に先日強引に感じた亜子の体温を思い出す。
少しシャープになった顎から首筋にかけてを愛でるように見つめる。
ふと、襟の隙間からチラリと覗く、朱色の模様を見つける。
上から見下ろす形にならなければ見つけることの出来ないモノ。
明らかに、「亜子のオトコ」の刻み込んだ『所有印』だった。
瞬時にそれが分かった郁は、今すぐ力ずくで亜子を抑えつけたい衝動に駆られるが
一気に沸点に達した劣情は歪んだ形を成すことで冷静さを取り戻した。
ソファーの背もたれへ体を預け、肩肘を縁にかけたまま頬杖をつく。
(まだだ・・・。まだまだ。じわりじわりと追い詰めてやるよ、亜子。
二度と逆らえないようにね・・・)
口の端だけに笑みを浮かべ、
何も知らずに資料を読み耽る亜子を眺め続けた。
恵太と亜子の知らない所で、
郁の作戦は着々と進められていた。
まるで蜘蛛の巣を張り巡らされるように
二人の周りに逃げ場はなくなっていくのだった。