58.響き始める不協和音
泰次と小鳩を乗せた車が角を折れたのを確認してから
恵太は小鳩の背にそっと手を沿え、室内へと促した。
部屋へ戻り、窓を閉めてカーテンを引いたとき
突然背後から亜子に抱きしめられた。
「・・・先生?」
今まで亜子からこんな風に甘えてこられたことのない恵太は
少し戸惑いながら振り返ろうとするが
亜子はその細い腕にぐっと力を込め、恵太の背にイヤイヤをするように
額を擦り付けた。
「・・・どした?」
亜子のそんな幼い仕草にふっと笑みをもらしながら、
自分の腹部に巻きついている亜子の腕に自分の手を添え優しく解く。
するすると力が抜けたのを確認して、恵太は亜子へと向き直ると
亜子は俯いたまま、ポツリと呟いた。
「恵太君・・・心配かけて・・・ごめんね」
そんな亜子をすっぽりと包み込んで、そっと頭を撫でた。
「もういいよ。先生が無事に帰って来てくれたら、それでいい」
少し身を屈め、亜子の額にそっと唇を寄せた。
今亜子が自分の腕の中にいる。
恵太はそれだけで、本当に呆れるくらい安堵していた。
ここに帰って来てくれたと言う事。
それは亜子が郁ではなく、自分を選んだという何よりもの証拠だと思った。
「郁とは・・・ちゃんと話せた?」
「うん・・・」
俯いたまま、小さく答える亜子。
「郁、何だって?」
「・・・幸せならよかったって、言ってくれた」
そう言って、再び恵太へとしがみつくように体を預けて来る亜子が
愛しくて、可愛くて・・・。
恵太もそのまま亜子をぎゅっと抱きしめて、幸せな溜息を一つ転がした。
「恵太君、苦しいよ・・・」
――――――――いつもならその様子に違和感を覚えたかもしれない。
しかし今は、帰宅が遅くなりみんなに迷惑をかけた罪悪感が亜子を支配して
表情を曇らせていると考えてしまっても仕方のない事で。
この時の恵太は亜子の変化に気が付くことが出来なかった。
亜子が誰にも言えない気持ちを抱え込み、
不安と苦悩で、恵太に救いを求めるようにしがみついていることに・・・。
「幸せならよかった」
確かに郁は亜子にそう微笑みかけた。
ひとしきり郁の胸で泣いた亜子が
紅茶を淹れ直しながら言った郁の言葉を聞いたとき、
ホッとしたように表情を和らげた。
だが、郁もそう簡単に引き下がれるはずもなく。
今、亜子を捉えて離さない、その見えない敵へと話題を変えた。
「ね、亜子の彼氏ってどんなヤツ?」
亜子の座るソファーの隣に、適度な距離をとり腰を下ろす。
その言葉に、亜子の肩がピクリと跳ねたのを郁は見逃さなかった。
「あ・・・えっと・・・」
亜子は途端にしどろもどろになりながら
視線を宙へと泳がせた。
「なに~?俺に言えない様な相手なの?」
「ち、違います。えっと・・・なんて言うか・・・すごく・・・優しい人です」
「へぇ。仕事何してるの?」
「へっ?!」
亜子は持っていたカップを危うく落としそうになり
慌てて包み直す。
茶色い液体が一粒、小さく跳ね亜子のスカートへ染みを作った。
しかし亜子はそれには全く気も留めず・・・正確には気が付いてもいなく・・・。
カップを握り締めながら俯いた。
その手は少し震えているようで紅茶の表面は不規則に揺れた。
「あれ?聞いちゃまずかった?」
「あ、いえ・・・あの・・・」
「ひょっとしてフリーターとか?・・・まさか無職じゃないだろ?」
そう畳み掛けても、あからさまに狼狽して何も答えられない亜子に
郁はなんとも表現しがたい不調和音を胸で聞く。
おかしい。
何かがおかしい。
なぜ職業が言えない?
おおっぴらに出来ないことをしているのか?
胸につかえる違和感を抱いたまま、
更に情報を得ようと質問を変える。
「ま、いいや。年はいくつ?」
「いっ!?」
「・・・亜子?」
だんだん青ざめていく亜子の表情。
こうなると郁自身も、言いようのない不安感で戸惑いを隠せなかった。
「ちょ、ちょっと亜子、どうした?俺、そんな変なこと聞いてないよね?」
「ご・・・ごめんなさい」
「いや・・・怒ってる訳じゃないんだけど・・・。
なんか心配になるよ。俺に・・・言えない様な相手なの?」
その言葉に、亜子がまた肩をピクリと弾ませた。
俯いたまま、まるで貝のように口を閉じ身動ぎ一つしない。
(なんだ、これ・・・。絶対おかしい・・・)
「・・・俺の知ってるやつとか?」
「!!!ち、違います。全然違います」
途端、勢いよく顔を上げると
亜子は異常なまでに顔を左右に振って不自然極まりなく否定した。
(ビンゴ・・・?相変わらず嘘が下手だな・・・)
こうなった亜子を問い詰めてもいいことにはならないと
過去の記憶を手繰り、郁はそう判断した。
と同時に、後に引けない想いを募らせた。
「分かった!じゃあもう聞かない」
郁はソファーにどさっと背を預けながら
明るいトーンで言った。
その言葉がよほど意外だったのか
亜子はきょとん、とした表情で口を半開きにしたまま郁を見つめた。
「そのかわり」
郁はそういうと体を起こし、先ほど亜子に渡した数年越しの愛の証をとり、
その四角い箱をソファー脇に置かれていた亜子のバッグの中へと強引に納めた。
「え・・・?カオルさん?」
郁と自分のバッグを交互に見て
亜子は戸惑っていた。
「私、受け取れません・・・」
そう言って立ち上がろうとする亜子の手を握り、それを制した。
「だめ。俺、今の話じゃ納得できないから」
郁は今掴んだ亜子の両手で包み直し
向かい合いながら諭すように言った。
「亜子が本当に幸せなら諦める。でも今はまだその時じゃない。
亜子、彼氏の話なのにどうしてそんなに辛そうなの?」
亜子の瞳が郁の視線に耐えかねて離れようとする。
それを阻止したくて、亜子の顎を掴むと、自分の方へ固定した。
「本当に幸せなら俺にそいつ会わせて」
逃げ場を失った亜子の大きな瞳が、一段と見開かれ
苦しそうに眉をひそめると、悲しそうに揺れた。
「そいつと二人で、コレ返しに来るまで俺は諦めないから」
そう言い終わるか終わらないかで亜子の唇を荒々しく奪った。
弾かれたように逃げようとする亜子の後頭部を押さえ
それを許さない。
久しぶりに感じる亜子の体温と柔らかさ。
偶然再会したあの日から、ずっと欲しいと思っていたもの。
必死に抵抗する亜子に構うことなく貪る。
「っ!!」
刹那、鋭い痛みを感じて思わず唇を離すと
じわりと血の匂いが広がり、噛みつかれたと気付く。
ふと視線を亜子へ向けると、真っ赤な顔をして涙を浮かべ
肩で息をしながら郁を睨みつけていた。
手の甲で必死に唇を拭っている。
怒りと驚きと哀しみに満ちた目で、郁を射抜いていた。
今まで一度も見たことのないその表情に、郁は一瞬息を詰めた。
亜子は無言のまま立ち上がると、自分のバッグをひったくるように掴み
走って郁の部屋を飛び出した。
勢いよく閉まる扉の音を聞いて我に返る。
「・・・ってぇ・・・」
ポツリと呟き、唇をなぞると指先が朱色に染まる。
その艶かしい赤を眺めたあと、そろそろと立ち上がり、携帯を手に取った。
(手荒なマネ、するつもりはなかったんだけどな・・・)
自分の腕の中で震え泣く亜子を抱きしめたとき
どうしようもない独占欲が沸き上がった。
例え彼氏がいてももっと簡単に戻ってくると思っていただけに
亜子がなびかないのは想定外だった。
だが。
(奪える)
この調子なら奪える。
そう思いながらある人物の名をメモリーから呼び出し
発信ボタンを押した。
(絶対に取り返してみせる)
「・・・あ、もしもし、マサユキ?諫山です。久しぶり。
あのさ、大至急お願いしたいことがあるんだけど。・・・そう。
ん?いや、仕事関係ではないよ?
ちょっとプライベートなことなんだけどね。力貸してくれない?
マサユキにかかれば、すごーく簡単なことだから・・・」
リビングのカーテンを少し開け、一万粒ほどに光る人工の灯を見つめながら
郁は、亜子を取り戻すための行動を始めた・・・。
いつもありがとうございます。
奇数日更新を豪語していますが、何故諸事情がありままならない事も多々あり・・・。
有言不実行極まりない私ですので信用度ゼロですが、
ならばいっそのこと、出せるときは出してしまえ!!
と思い、連日更新してみました。
雲行きが怪しくなってきた昨今。
じれったく、すっきりとした読了感まるでなしの展開に突入しますが
何卒お付き合いいただけたらとても嬉しいです。
それでは今後ともよろしくお願いいたします。