50・郁 始動開始 1
夏休みだからといって、教師も生徒同様休んでいるわけではない。
部活動の顧問をしていれば当然その練習に毎日顔を出すし、
合宿などを行う大事な時期も夏だった。
そのほか科別の研修会や運営会議、2学期の行事の骨子決めなど会議も多い。
特に新米は仕事を覚える意味も込めて雑用が増える。
加えて模擬授業を先輩に見てもらうなど緊張を伴う仕事も多く、
休みはほとんどないようなものだった。
当然亜子もそんな忙しい新米の一人だった。
亜子が仕事から解放されたのは7時を回ってからだった。
腕時計をちらりと確認すると、急ぎ足で郁が指定してきたレストランへと向かう。
レストラン直前で信号待ちの間ショーウインドーで自身を映した。
亜子は首元を一番に確認した。
見えるところはだめだと言ったのに
独占欲を誇示する華を亜子に散りばめるように咲かせた恵太。
ノースリーブのタートルネックをクロゼットの中から引っ張り出し
薄いパープルのそれに合わせて白いフレアースカートを身に纏った。
際どいながらも、それと解る華はなんとか隠せたが少し動けば姿を現すため気が気ではない。
上から羽織った薄手のカーディガンの胸元を合わせ直しながら、
(もう、恵太君てば・・・。
だからダメって言ったのに・・・。)
そう心の中で文句を唱えながら昨日の夜を必然的に思い出す。
途端、顔が赤く沸騰するのを感じ慌てて頭を振る。
横断歩道に向き直り、熱を逃がそうと手の平で顔を仰いだ。
効果のほどはそれほどないようだったが、恥ずかしさをごまかすために
手を止めることが出来なかった。
周りから見たらかなりの挙動不審さと、百面相だったが
それを向かいのビルの2階、窓際から愛しそうに眺める人物―――――郁がいた・・・。
頬杖を付き、向かい側の横断歩道で落ち着きのない亜子。
郁はそれを窓越しに穏やかな笑顔で見つめていた。
離れてから4年。
それでもこうやって大勢の中から、遠目でもすぐに彼女を見付けることが出来る。
自分では考えないようにしているつもりだったが、
やはり郁の中で亜子の存在は大きかった。
亜子の様子を見ていると、無意識に頬が緩んでいた。
懐かしさと愛おしさで胸いっぱいになる。
一生懸命オシャレをし、自分と会うことを何より楽しみにしてくれていた亜子。
4年前もそうだった。
郁が待ち合わせに遅れると、先にそこにいる亜子は身だしなみを気にして
ウインドー相手に髪を撫で付けたりくるくると回って確認したりとそわそわしていた。
そして自分を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってくるのだ。
今もあの日と変わらぬ仕草。
その姿を見て懐かしく、変わっていない事に喜びを感じる郁。
自分のための仕草だと信じて疑わないのは仕方がないことだろう。
昔と違うのは、息を呑むほど、女性らしくなった点だろうか。
あの頃の可愛らしさそのままに数段綺麗になった亜子が、小走りに横断歩道を渡る。
そんな亜子から郁は目が離せなかった。
店に入ると先に席につく郁を見付け、
亜子の顔に満開のヒマワリのような笑顔がぱっと咲いた。
郁は軽く片手を上げ、亜子の笑顔に応えた。
4年という時は流れたが、変わらぬ愛くるしい笑顔を向けてくれる亜子。
(これなら―――――。)
高鳴る鼓動を悟られないよう、余裕のある落ち着いた風に振舞う。
先に頼んでいた食前酒を口に運びながら、郁は思った。
(これなら、あの日をやり直せる。
止まったままの時計を、再び動かそう。)
席に駆け寄りながら「ごめんなさい。思ったより会議が長引いてしまって」と謝る亜子を
郁は抑え切れない愛おしさを、熱いまなざしと笑顔に変えて迎えた。
しかし食事も終盤を迎える頃、郁の願望は脆くも崩れ去った。
意を決して口に出した郁の「俺たち・・・やり直さない?」と言う問いに
亜子は一瞬俯いたあとすぐに顔を上げ真っ直ぐに郁の瞳を見つめ、言った。
「・・・ごめんなさい。―――――私、今お付き合いしている人がいるんです」
そう微笑む亜子のその頬が、薄っすらと染まって見えるのは
この店の柔らかい色調の間接照明灯のせいでないと認めざるを得なかった。
「そ、そっかぁ・・・。亜子、きれいになったもんなぁ!いて当然か!」
激しく動揺する心を悟られないよう、務めて明るい声で
腕を前に伸ばして伸びをするように背もたれへと体を預けた。
全身の血が逆流して頭へと上っていくのがわかる。
「そっ、そんなことないですっ」と、耳まで真っ赤になりながら
顔の前で手をぶんぶん振る亜子。
純真無垢で、自分だけをあんなに愛してくれた亜子はもういない・・・。
そう思うと、名を付けがたい感情が駆け巡った。
彼氏がいることも、もちろん覚悟していた。
しかし、実際亜子の口からその事実を聞くと・・・。
郁は自分でも驚愕するほど、ショックを受けていて
また隠せずにいる自分に苛ただしささえ覚えた。
座っているのに膝がガクガクと震え、気を抜くと崩れ落ちそうだった。
「・・・じゃ、いくら勧めてもワインを口にしないのは・・・彼の言い付け?」
よろめく体を支えたくて今度は身を乗り出して肘を突き亜子の瞳の中を探る。
口調はあくまでも茶化すような、明るく優しいトーンで。
「あ、いえ・・・。そうじゃないんですけど・・・。
私、お酒好きだけど弱くて。いつも迷惑かけちゃうから一人では飲まないようにしてるんです」
亜子は、たはは〜と恥ずかしそうに笑うと自分の頬を包む様にして軽く叩いた。
それは亜子の癖で、久々に見る嬉しそうな姿から
亜子の話は作り話ではないということを郁に証明していた。
ひょっとしたら自分を待っていてくれているかもしれないという淡い期待。
彼氏がいても自分のところへ戻って来てくれるかも知れないという自分勝手な妄想を持ち合わせて
今日ここへ来ていた郁。
しかし今の会話から亜子はその男に全幅の信頼を寄せていることは確かで。
郁のその期待と妄想を一瞬でかき消し、失望させた。
「驚いた・・・・・・。そっか・・・。そうだよなぁ、もう4年経ったもんな・・・」
郁がぽつり、と吐き出した『4年』と言う言葉に
亜子の肩がびくっと跳ね上がったのを郁は見逃さなかった。
このまま・・・このまま過去を『過去』として片付けられては困る。
「あ、あの―――――」
恐らく自分に不利な言葉を発しようとする亜子の言葉を
郁は遮った。
「あの日・・・亜子にプロポーズする準備してたんだ、って言ったら・・・どうする?」
会うまでは「不甲斐なかった自分が悪いのだから
もし、亜子が幸せそうだったら潔く身を引こう・・・」
本気でそう思っていたのに・・・。
今はそんなことを考えていたのが嘘のように嫉妬心に狂い始めていた。
相手の男が憎くて仕方がない。
絶対に亜子を奪い返したい。
身勝手な郁の意志は一瞬の間に方向転換していた。
亜子は意標を衝かれ、文字通り開いた口がふさがらないというように
言葉を失くして自分を見つめる。
亜子の、この瞳・・・。
この唇・・・。
俺だけのものだったのに・・・。
郁はそのまま目を逸らさず
じっと亜子を見つめた。
「い・・・いま・・・なんて?」
泣きそうな顔で、必死に絞り出す亜子。
そこにいるのが先程までの穏やかな郁はなく。
いつになく真剣な、怒りにも似た強い眼差しで直視されて亜子は戸惑いを隠せないのだろう。
亜子の形の良い、ぷっくりとした唇が微かに震えていた。
「―――――俺・・・今日は帰す気ないよ。
いや―――――・・・今日だけじゃない。
俺、亜子のこと諦めるつもりないから」
怪しく、そして強い炎を宿す瞳に捕らえられ
身動きだけでなく思考回路まで奪われた亜子。
郁がその手を攫うように握り締めていることにすら気がつかずにいた・・・。
ついに郁が動き出しました。ここまで長かった(汗)。
ここだけ読むと、こんなにまで亜子に執着するならなぜ・・・という感じですが・・・。
実は郁には郁の事情がありまして・・・。
次話で、その郁側の4年前を書く予定ですので、そちらをお待ちいただけたら嬉しいです。
で、出来るだけ早めに更新します(笑)。
それではこんな隙間までお読みくださった、心優しいあなた様の明日がすばらしい日々でありますように!