46・郁+亜子=過去 恵太+・・・?
それからのことはよく覚えていない。
夕立に降られ、自転車で移動していた恵太が撮影場所へ着いた時にはずぶ濡れになっていた。
「ケータ!どしたん!?びしょびしょやんか!!
ちょっと誰かタオル持って来て!!」
小鳩が慌てて駆け寄り、スタッフから受け取ったタオルで恵太を拭く。
「あ−…。大丈夫。自分で拭けるから。ありがとう」
微笑んでタオルを小鳩から受け取ろうとしたが。
その力無い恵太の微笑みに小鳩は一瞬息を飲む。
見たことのないその表情から、とっさになにかあったことを悟った。
小鳩は気付かないふりをしながら、
「なぁにゆうてんの!はい、そこ!そこの椅子座り。
姉ちゃんが拭いたるから!」
そう言って、わざと明るい声で恵太の胸をぐいぐい押しすと、
すぐ後ろにあった椅子へと座らせた。
「はいはい…」
恵太は少し笑いながらも振りほどく力もなく、されるがままになっていた。
「急に降ったんやなぁ。まー見事に濡れて。ケータひょっとして雨男〜?」
恵太の頭をガシガシと乱暴に拭きながらのその声に
周りにいたスタッフからも笑いが起こる。
しかし・・・。
真下へ垂れ下がった前髪から覗く、恵太のその瞳は
全く笑っておらず、小鳩の言葉自体が届いていないようだった。
それに気が付いてしまった小鳩は、それ以上声をかけることも出来ず
いつまでもいつまでも、ただただ力いっぱい恵太の頭を拭き続けた。
1時間前―――――・・・。
イギリスに留学しているはずの郁が目の前に現れた。
郁は現在30歳。今年18歳になる恵太とはちょうど一回り離れているが
正真正銘の兄弟だ。
身長は180cmを悠に越える恵太には及ばず、そう大きいほどではなかったが
小さな亜子と並ぶ姿は、ちょうどいいバランスで
むしろ自分よりもしっくりきているように感じた。
恵太が父親似の意志の強そうな凛とした切れ長の二重が特徴ならば
郁は母親似の華やかさのある深い二重が人目を惹いた。
小さいころから頭脳明晰、運動神経抜群。
楽器もヴァイオリン、ピアノなどいわゆる良家の嗜みと呼ばれる類のものは
あっという間に吸収して樹を喜ばせた。
無口な恵太とは対照的に、人見知りをせず、
誰とでもすぐに仲良くなってしまう、ユーモアのある社交的な性格。
自分の才能や環境をひけらかす事もなかったため、
郁の周りには男女問わずいつもたくさんの友人がいた。
そんな郁だから、当然モテていた。
幼い恵太の知る限りでも、たくさんの女性が郁を訪ねて来ていたし
そして誰に対しても優しかった。
何をやらせてもそつなくこなす郁。
この世に郁に出来ないことなんて何もないんじゃないかと思うくらい、
完璧な郁。
その郁が・・・。
その郁が、現れた。
しかも、亜子を知っている。
いや、ただ『知っている』だけではなく
明らかに過去を『共有』している・・・。
後からワザとらしく「雛沢」と呼んでいたが、確かに亜子を見た瞬間「亜子」と呼んだ。
あんなに驚いて・・・そして嬉しそうで・・・大事なものを見るような目の郁を
恵太は見たことがなかった。
「誰にでも優しい」郁の姿ではなく、「ただ一つの宝物」を前に
純粋にはしゃぐ子どものような郁の姿。
そして。
何より、恵太の胸を締め付けた亜子の、あの表情。
罪の意識をいっぱいに背負った、嘘を見破られたときの子どものような表情。
かすかに動く唇から言葉を読み取ることさえ、出来なかった。
顔を赤く染め、恵太にも見せたことのないような恥らった様子で郁を見つめていた。
二人の間に流れる、秘密めいた空気を郁は・・・亜子は・・・
隠せた気でいるのだろうか。
「あの時の・・・」
「え?」
不意に恵太の口から言葉が漏れた。
黙ってガシガシと恵太の頭をこすっていた小鳩は
その手を止め、恵太の言葉を必死に探した。
「俺が『好きだった人と同じ苗字』だって・・・。
そりゃそうだよな。俺、弟だもん」
話がつかめずに困惑する小鳩は、かける言葉も見つからず
ただただ立ち尽くしてしまった。
その時、恵太がスッと顔をあげ
「ごめん、今の独り言。忘れて」
そう言って、いつものように笑って見せた。
乱れた無造作な髪の毛の隙間から覗く、苦しさを押さえた優しい瞳。
その表情が息をするのを忘れるくらい色気を含んでおり、
思わずドキッとした小鳩は目を逸らした。
「な、何ゆうてるのか、聞こえへんかった!
それより現場ケータ待ちやで!早くメイク室行き!!」
迂闊にも赤くなってしまった顔を見られないように
今度は恵太の腕を掴んで無理矢理立たせると、メイク室へと背中をガンガン押した。
スタッフに何度もすみません、と大きく頭を下げながら出て行く恵太の
後姿を見ながら小鳩は、大きく深呼吸をした。
「あかん。本気になってしまいそうやわ・・・」
小さく自分にだけ聞こえるように呟くと、顔を大きく左右に振り、
そして自分の両頬をバシバシーっと勢いよく何度も叩いた。
そのあまりの音に、忙しなく動いていたスタッフの面々が
一瞬にして凍りつき、小鳩に視線が集中する。
「な、何してるんだ、小鳩」
小鳩専属の男性マネージャーが慌てて走り寄る。
「気合じゃーーー!!!だあぁぁぁぁーーーー!」
しかし、小鳩の肩に手を置こうとしたのと同時に
勢いよく突き上げた小鳩の拳がそのマネージャーの顎へ
クリーンヒットし、その場にひっくり返ってしまった。
「だ、大丈夫ですか?!」
「よおぉぉぉーーーし!!!小鳩、お仕事しまーす!!!」
そばにいたスタッフたちが騒然とする中、
一発K.O.を喰らわせたマネージャーなど見向きもせず、
小鳩はもう一度拳を高らかに振り上げると、ズンズンという音が聞こえてきそうな足取りで
準備のためフィッテングルームへと向かった。
事の顛末を見ていた泰次だけが
ひとり監督専用の椅子で、「これは面白いことになりそうだ」と
お腹を抱えて笑転げていた。
一方シャワーを浴び、メイクとセットを施されている恵太の元には
一通のメールが届いていた。
frm:亜子
sbj:今晩
-------------------------
さっきはごめんなさい。
今晩、何時でもいいので
お仕事終わったら会えない?
きちんと話がしたいの。
連絡、待ってるね。
---------------------------
先生は、何を謝っているのだろう。
謝るようなことをしたのだろか・・・。
意地悪な思考が頭を駆け巡って集中力を削いでいく。
散々迷った挙句、そのメールに返事をすることはないまま
恵太は撮影へと臨んだ。
今は・・・・。
今は、何も考えたくない。
会うことも、話すことも
そしてメールを返す勇気全て、今の恵太にはなかった。
ただ、目を逸らすだけ。
ただ、仕事に逃げるだけ。
そう願う恵太は無心になって演技を続けた。
気がつけば、すごく時間を置いての更新になってしまいました。もし・・・もしお待ちいただけている方がいらっしゃいましたらごめんなさい。
好き過ぎて向かい合うのがものすごく怖かったこと。
思い出まで受け止める器を持てないこと。
多分、恋愛中だろうが結婚中だろうが
一度は問われる姿勢かな、なんて思います。
まだ高校生で猜疑心だらけの恋しか経験したことのない恵太には多分、
史上最大の非常事態。
いつも背伸びして、亜子に好かれたい、釣り合いたいと必死な恵太には
尚更郁は脅威で、足がすくむはずです。
恵太が等身大のまま、真の安らぎを得るのは・・・?
今後とも見守っていただけたら嬉しいです。
今日(12/6)、もう一話更新できれば・・・と思っています。
遅くとも12/7の次話更新を予定していますので
またお読みいただけましたら幸いです。