45・夕立前 30分
夏休みもあと1週間となったある日、恵太は撮影の空き時間に、久しぶりに学校へと来ていた。
雲ひとつない昼下がりののどかな学校。
いつもは賑やかな学校も、主がいなければ静かなもので。
恵太は、独り占めしているような不思議な感覚でいた。
そんな学校に撮影真っ只中の恵太がいる理由はひとつ。
進路指導。
進路担当主任から、呼び出しを食らったのだった。
急に忙しくなったせいで伸び伸びになってしまい
恵太だけ進路指導を受けていなかった。
国理という難関校を目指すコースにいながら、進路が決まっていない恵太。
元々2年生までに高校の授業を終わらせるので、
勉強の心配はなかったが志望校すら決まっていないのはありえない。
進路担当に、新学期までに志望校を決めるようにきつくお説教され、
逃げるように指導室を出た。
はぁっとため息を付き、背伸びをする。
まだ残暑が厳しい8月末の学校は、エアコンの効いた部屋から出ると、
むんっとした空気が立ち込め、それだけで汗が吹き出る。
恵太は制服のシャツの胸元を掴み、ぱたぱたと空気を送り込みながら歩く。
格段に涼しくなるわけではなかったが、しないよりマシな気がした。
その時ちょうど廊下の角から誰かが曲がってきた。
「あ!恵太く…」
そこまで言って慌てて口を押さえ周りをキョロキョロと見回す。
「危なかった〜…『諫山君』だった」
その人物…亜子は苦笑いをしながら恵太に駆け寄った。
「なんか、制服の恵…諫山君久しぶりに見た〜」
ニコニコと、屈託なく笑う。
大きな封筒の束を胸の前で抱えながら恵太を見上げるその姿は、
何よりの癒しだったしこの愛らしい女性が、
自分の彼女だという事実に幸せを噛み締めていた。
「?諫山君?どうしたの?」
黙ったままだった恵太を不思議に思ったのか、
亜子が少し首を傾けて覗き込む。
「いや…それ、この前買ったヤツ?」
亜子の着ている薄いブルーのワンピースを指差す。
「あ、分かった?!えへへ。嬉しくて着て来ちゃった!どーお?似合う?」
亜子はおどけてくるっと一周回ってみせた。
控えめなフレアーが亜子の動きに合わせて、空気をはらんでふわり、と揺れる。
胸元の繊細な縁飾りが上品で、亜子の雰囲気ととても合っていた。
淡いパステルカラーのブルーが色白の肌によくなじみ、楚々として涼しげで。
「うん。すごく似合ってる」
そんな眩しいほどの亜子の姿を見て、思わず恵太も頬が緩む。
そんな恵太につられるように亜子も
「ふふっ。見立ててくれた彼のセンスがいいんだよ」
そんなことを言いながら照れ隠しのように笑う。
一方の恵太も、自分を『彼』と呼んでくれる亜子の不意打ちに、思わず吹き出してしまった。
端から見れば、明らかにバカップルな会話だったが、
今はそれが楽しくて仕方なかった。
ふっと、会話が途切れ、少しだけ静かな時間が訪れた。
引き合う磁石のように見つめ合う恵太と亜子。
恵太が亜子の髪に触れようと、そっと手を伸ばした時―――――・・・。
「あれ…?恵太?」
恵太は背後から突然かけられた声に弾かれたように手を引き、
不自然なまでに亜子から離れ、振り返った。
「え……郁……?」
「やっぱり恵太かぁ!お前、また背が伸びたなぁ!
どこまで成長するんだよー。羨ましいなー!!!」
いるはずのない人物のいきなりの登場に頭も体も全くついて行かない。
固まったまま動けない恵太に、
郁は、ニコニコと笑いながら近づいてくる。
しかし、恵太の隣にいる人影に気がつき
「こんにちわ」と挨拶をしかけたが、
その顔を確認すると見る見る間にその笑顔が消えていき、
今度は驚きで目を見開いたまま立ち止まった。
「………ひょっとして………亜子…?」
郁のその声に弾かれたように恵太が亜子を振り返ると、
亜子は真っ青になって唇を震わせていた。
その場の誰もが動けなくなった。
―――――なんだ、これ―――――。
恵太の中で嫌な音が渦を巻いて迫ってくる。
小さな声で、「か…おる…さん…」と亜子が呟いた声が聞こえた気がしたが、
同時に亜子の手から落ちた封筒が大きな音を立てて廊下に散らばったせいで、我に返った。
屈もうとした恵太の横をすっと郁が通り抜け、
一足先に封筒に手をかけた。
「あ〜あ〜、相変わらずだなぁ。お前は」
その声にやっと自分の手から荷物が離れていることに気が付いた亜子は
弾かれたように屈んで、慌てて拾い始めた。
少し、手が震えているように見える。
「す、すみませんっ…」
「いや、構わないよ。そそっかしいのは昔からだし」
「そ、そんなこと・・・」
郁は「お、大学案内のパンフレットか。今からが本番だよなぁ」とか
「いやぁ、なつかしいなぁ。こんなところで会うなんてなぁ」
とか言いながら、弾けんばかりの笑顔で亜子を見て懐かしそうにしながら
ひとつひとつ落ちたものを拾い上げていた。
一方の亜子も、さっきまで青かった顔は、今度は耳まで真っ赤に染まり、
郁と目が合うと逸らして・・・を繰り返しながら
慌てた様子で拾ったものを抱え直していた。
少し狼狽しているように見えたが荷物を落とした恥ずかしさからだけではない感じがして、
恵太は妙な胸騒ぎがした。
「恵太?どうした?」
郁が突っ立ったまま動けないでいる恵太を心配そうに見ながら立ち上がった。
その声にはっとして我に返ると、
郁の横でヨロヨロと立ち上がった亜子は、なぜか俯いたままこちらを見ようとしなかった。
「・・・。なんでもない」
「そうか?いやぁ、亜子・・・雛沢がうちの学校で働いてたなんてなぁ!」
「えっ?!うちの学校って・・・」
弾かれたように顔を上げた亜子が、大きく目を見開いて郁を見た。
「ん?ここ、俺の親が理事長なんだけど・・・。ひょっとして知らなかった?」
驚きのあまり声にならない様子の亜子は口を開けたまま、
首を大きく上下に振って頷いた。
「じゃぁ・・・」
そういいながら、郁は恵太の肩に手を置いて亜子のほうを向いた。
「こいつ・・・。恵太、俺の可愛い弟なんだけど・・・。それも知らないとか?
あ、お前今『似てない』とか思っただろー。・・・」
楽しそうに話し続ける郁の声は、もはや二人の耳には届かなくなっていた。
恵太はすがるように亜子を見つめる。
黙って恵太を見つめ返すその瞳が・・・。
いつも恵太を優しく見守ってくれる、その大きくて澄んだ瞳が
今、初めて見る色に染まり、悲しげに潤んで・・・そして逸らされた時、確信した。
それは、知るも地獄、知らぬも地獄・・・。
郁と亜子の間には自分の知らない、なにか大きな過去がある。
夏の空は気まぐれで、黒い雲が立ち込めていた。
夕立は、もう近い。
どこか遠くで雷鳴が轟いた気がした・・・。
ついに郁が登場しました。
一度不安になりだしたり疑い始めたら、自分自身に縛られて苦しくなった気がします。
『知るも地獄。知らぬも地獄』かたや『知らぬが仏』 いろんなことを思いました。
でも結局、どの方法を選ぶにしても向き合うしかないんですよね・・・。
恵太が、そして亜子がこれからどう向き合っていくのか。
小鳩と郁と泰次、どう動き出すのか。
これからも見守っていただけたら嬉しいです。
それではお読みいただきましてありがとうございました。