33・手と手
激しい喉の渇きと、汗でべっとりと張り付くパジャマの不快感で、亜子は目を覚ました。
まだ頭痛があり、体が芯から熱を持っているようだが、
昨晩までに比べたら、随分楽になったように感じた。
何か飲んで着替えようと、上体を起こしたところで違和感を覚える。
「………あっ!」
自分と、左手を凝視し
たっぷり時間をかけて状況を理解した。
そして思わず声を上げ、慌てて右手で口を押さえた。
な、ななななな・・・・・!!!
声にならない声を必死に堪え、亜子は自分のしていることに驚愕した。
亜子の左手は恵太の手をしっかりと握ったままだった。
自由を失った恵太は、ベッドの脇に座り、
亜子の手に身を寄せる猫のように顔を任せ、
ベッドにもたれかかり眠っていた。
初めて出会った頃より伸びた髪の毛。
手に取るとサラリ、と逃げていき、
パーマやカラーでいじめたことのない素直な髪は
恵太そのもののようだった。
傷どころかトラブル一つない、憎らしいくらい綺麗な肌。
触れてみても、指先に凹凸は返ってこなかった。
閉じられた瞳を縁取る睫毛は、今まで気がつかなかったが
ひょっとしたら自分よりも長いんじゃないかと思った。
うっすらと開いている形のいい唇。
口角はきゅっと上がり、言葉数は多くないけれど、
いつも穏やかな恵太の笑顔を連想させる。
そこから規則正しい寝息が漏れ、
亜子が少々いじった位では、まるで起きる気配はなかった。
恵太の唇と寝息を意識した途端、変な考えが亜子を襲う。
恵太君は、どんなキスをするんだろう・・・。
自分の突飛な考えにハッとし、慌ててかぶりを振る。
そんな自分が恥ずかしくなり一人赤面する。
(これじゃ、私変態だわ!!)
そう思いながらも、恵太の寝顔から目が離せない。
自分のために、今ここにいてくれる恵太。
生徒としてだけじゃない感情を抱いていることを
もう隠せそうにない事を亜子は悟った。
ぼんやりと過去へと思いをめぐらせる。
あの人から逃げるように他県の大学を選んだ。
距離さえ離れれば、顔が見えない場所へさえ行けば、
二度と会えなくさえなれば、忘れられると思っていた。
何度もアドレス帳から名前を消そうとした。
でも、そこに表示される
『 消去しますか? 』
という、事務的な文字に
答えを出すことはなかった。
いつか連絡があるかもしれない。
そう思い、たった一つの繋がりにすがり付いていた。
忘れられないまま想いは膨らむばかりで
進学しても、他の人と付き合ってみても
頭からあの人が離れることはなかった。
いつかどこかで、映画やドラマのような運命的な偶然で
また会えることを、本気で祈っていた。
一人になると、あの人のことばかり思っていた。
それなのに。
赴任初日のあの日から、
亜子の頭の中を占めていく面積に少しずつ下克上が起きていた。
真っ直ぐで、有無を言わせない恵太の圧倒的な存在感。
男の人に一瞬で目を奪われたことなど、これまでなかった。
今思えば、そのときから惹かれていたのかもしれない。
あんなに人の名前と顔が一致しない自分が、
あの出来事と、名札だけで恵太を覚えてしまったのだから。
思いがけなく一緒に過ごした夜。
その時から繰り返し思い出されるのは、
優しく微笑みかける恵太だった。
スマートな身のこなしで会計まで終えてしまうオトナの一面。
拗ねるだけしか出来なかった自分を、敢無く降参させる声。
力強く引っ張ってくれる腕の強さ。
「好きな人と一緒にメシ喰いに行ったら、奢りたいって思うし」
そう言ってくれた、5歳も年下の生徒。
返事も出来ずにいる亜子に、何も強要せず、
ただただ寄り添っていてくれている。
あの人に愛されることを求めていた亜子は
いつの間にか恵太の笑顔を、何よりも欲していた。
「恵太君・・・」
声にならない小さな声で、
愛しい人の名前を呟いてみる。
熱にうなされ、朦朧とする意識の中で
考えていたことは、恵太のことで。
これまでの3日間、数回鳴った電話やチャイムは
全て出なかった・・・というか出られなかった亜子。
だけど、恵太が訪ねてきたその時だけは
「・・・恵太君かも・・・」
反射的に体が動いていた。
玄関を開けたとき、
一番会いたい人の姿が目の前にあり、
自分から手を伸ばしていた。
汗だくになりながら駆けつけてくれた恵太の胸に飛び込んだと同時に
意識を手放した。
その後のことは飛び石のようにしか覚えていない亜子だったが
自分の肩を、壊れ物を扱うように優しく
でも力強く抱きしめてくれている恵太を、常に感じていた。
(ここ最近・・・ううん。
もう、随分、あの人のことを思い出さなかったなぁ。)
亜子は恵太の寝顔を見つめながら、
自分の心の変化を感じていた。
いつの間にか亜子は
『 恵太くん 』
そう携帯に表示されるのを、心待ちにしていた。
着信音や、メール着信だけじゃなく
イルミネーションも個別設定するほどまでに。
亜子は恵太の髪を再び撫でる。
相手は生徒で、しかも芸能人だとか
そんなことが考えられないほどに、
亜子の中で恵太の存在が膨れ上がっていた。
全力で自分に向かってきてくれる真っ直ぐな恵太。
そんな恵太への想いは、
気付かないふりして目を逸らしていただけで、
もう随分前から育っていた感情。
起こさぬようにそっと恵太に握られていた左手を抜き取り
そのままキレイな頬に手を当ててみる。
「恵太君・・・大好き・・・」
今度ははっきり、そしてしっかりした意志のある声で
そう伝えた。
だけど・・・。
それは恵太が起きてしまったら、決して口にしてはいけない想い。
教師という立場がある以上、
たとえ自分も同じ気持ちだとしても
応えることは許されない。
万が一のことが起きて、
恵太の未来を潰すわけにはいかなかった。
心に秘めて恵太を見守ることが自分にできること。
だけどせめて今だけ・・・。
今だけは・・・と、そっと思いを告げてみた。
それが亜子が出した、自分を好きになってくれた恵太への
精一杯の答えだった。
恵太を起こさないようにベッドから出て
ローソファーに座りながら
目の前のテーブルの上においていた携帯を手に取る。
アドレス帳から、あの人の名前を呼び出す。
初めて人を愛することを教えてくれた相手だった。
その失恋を認められず、幻想から抜け出せずにいた。
どうか、あなたの人生が幸せでありますように・・・。
今だから、やっと言える。
亜子は、自分でも気が付かないうちに、
自分で縛っていた過去の恋から抜け出していた。
ベッドのほうへ目を向けると
ぐっすりと眠る恵太がいる。
その寝顔を確認し、温かな気持ちで満たされる。
「・・・。いままで、ありがとう」
もう直接伝えることはできないけれど、
それでも、と心からの感謝を呟く。
そして携帯のアドレス帳から、その名を消した。
『 <郁さん> 消去しました 』
そう表示するディスプレイを確認して
そっと携帯を閉じた。
もう、戻らない。
カーテンを開けると、昇り始めた太陽が
放射線状に希望を振りまきながらビルの間を狭そうに手を伸ばしていた。
す、すみませんっ。
一晩寝かせて、やっぱり納得がいかず大幅に書き直しました。
あのままじゃあ、亜子、ただのイタイ子だったので・・・。
ここから大人ならではの葛藤をしてもらえればな、と彼女の成長に期待しています。
ごたごたですみませんでした・・・。