山
「これがその手紙か」
その手紙が打ち込まれたのは明け六の鐘が聞こえる少し前だった。だん! と雨戸が鳴ったのを不審に思った宿直が第一発見者だった。その後起こった、「出会え! 出会え!」と蜂の巣をつついたような騒ぎが収まったのは少し前。
警護の武士が外に飛び出した時には犯人の影も形もなく。
見事な江戸時代のピンポンダッシュといえよう。
・・・開けてなくて良かったな。
雨戸の内側はせいぜい障子があるぐらいである。
まあ、話にも聞いた試しもない。
よっぽど運が悪くなければ矢文の矢が人に当たるなんて事は起こらないのだろう。
矢を放った犯人は腕がいいのか悪いのか。
もう少し高く飛んでいれば屋根に乗って、音もせず、気づかれもしなかっただろう。
まあ、その方が手間にならなかったか?
いやいや。
打たれた矢は鷲の羽を使った物だ。細く折り畳まれ結ばれているが、紙も漉きこまれた繊維も目にまぶしい純白。
そこに“山”と墨痕鮮やか書かれている。
どう見ても、いたずら使うものではない。
こうして、その手紙は評定の場に持ち込まれる事になったのだった。
□□□
「いやはや、朝から騒動であったな」
どたばたと顔を合わせた後ではせっかくの登場シーンも決まらない。
一段高くなった畳の上に藩主が現れると同時に頭を一斉に下げるのは家来として当たり前であったが、興奮冷めやらぬ状態では決まらない。
やり直すものでもないので朝の挨拶は、ばらばらの締まらないものとなった。
「楽にせよ」と、声をかけずとも。
朝から走り回った家来が気を張りっぱなしにはできばいのであった。
「それで、内容は?」
矢文で打ち込まれたほどなのだ。よほど重要な話違いない。
問いかけられた家来は、「はっ」と短く返事をして件の手紙を藩主へと捧げた。
「うむ、それで?」
もちろん、凶器である矢ごと手紙を渡したりはしない。
読め、と命じられたわけでもないが、家来がほどいた手紙を伸ばし、サッと手を振るとパッと折り目が広がるようで、あまりに細かく畳まれた為か、引っ掛かったりしている。
そんな様子ではあるが、文字は追える。
「・・・」無言で目読する家来の顔に、なんじゃこりゃ? と浮かび始めれば、藩主も興味を隠せない。
「かかる仕儀により、赤穂の浪士が討ち入りを計画している、と?」
「はっ。ゆめゆめ御油断召されるな、と」
どこか疲れた様子。
なぜか大騒ぎした理由がこれかよ、と。
ぼやく藩士に労の言葉をかけた藩主は、額を無意識に撫でながらあの大騒動を思い起こしていた。
□□□
「この間の遺恨覚えたか!」
「知らんわ! なんのことだ?!」
本当か嘘かは定かではないが、その叫びが発せられたのは、元禄十四年の江戸城であった。
叫んだのは、赤穂藩主浅野内匠頭長矩。
叫び返したのは、高家吉良上野介義央。
場所は松の描かれた襖の横の廊下。
三月十四日が日本の菓子メーカーにホワイトデーにされるのは約二百八十年後の出来事であった。
「空気読めバカ!」と時の将軍が言ったかも定かではない───というか、たぶん言ってない───が、面目を潰された彼が激怒したのは定かである。
「いや、『遺恨あり』で済まさないでー そこ、そこが重要なんだから!」。
後の歴史学者の声は届くことなく、赤穂藩主は即日切腹。
吉良上野介は咎め無しどころか、将軍から見舞いの言葉までかけられている。
「喧嘩両成敗が、という話もありましたな」
「何でだ? 喧嘩にもなっておらんだろう」
浅野内匠頭が切れやすい若者なら、吉良上野介は頑固ジジイか。
相性を考えれば取っ組み合いの喧嘩になっていてもおかしくないが、ならなかった理由はわかる。
「よくぞ、こらえましたな」
「左様、さよう」
吉良が反撃せず逃げただけだったのも大きい。
日中である。
いきなりである。
殿中でござる。
誰もあの日、あの場所で刃物を持った男性に襲われるなんて思わないのだ。
結局のところ吉良を恨む赤穂の浪士の思いは逆恨みであり、迷惑でしかなかった。
が。
□□□
「しかし、何故なにゆえ当家に密書が?」
書かれていたのは“山”だけだが。
内容からすれば密書で間違い無いだろう。
家来が疑問に思うのも無理は無い。
そして、藩主の顔にもキズは無い。
吉良邸は───。
ここではなかった。
近所でもなかった。
というか「何で家に?」であった。
「射ち損ね、でござろうか?」
江戸時代、表札はまだ存在してなかった。
とか言う前に、弓矢の射程は二百二十間=四百メートル。
表札がどうこうという話ではなかった。
門番がいてもいなくても関係ない。
「そもそも狙って射ったかも怪しい」
「明け方に弓を使うような、やからであるしな」
「そうとなれば、早速届けに」
赤穂浪士の討ち入りが本当にあるかも定かではない。ここまでするからには確かな情報だとは思うが、矢文なんかを使っちゃう人間が情報源である。
とはいえ、いたずらだよねと放り出して吉良邸が襲われたりしたら・・・。
「では、それでよろしいですかな? 殿?」
藩主の尻が青い。もとい顔が青い。
□□□
参勤交代は有名な制度である。
が。
───三度目なので以下略───
「なあ、知ってるか?」
「何を?」
「饗応役がけちったって話」
地元では気を張って殿様殿様している彼らも、お城にくれば、一人の男戻れる。
そんな彼らが何をしてるのかといえばうわさ話だ。
殿、殿と日頃持ち上げられている彼らにとって、対等に口を聞ける存在が集まるのは気の緩む時でもあった。
「えっ? あの人二回目だろう?」
「畳表代えなかったんだってさ」
「うぅわ、マジか」
「あそこ、塩で儲けてんだろう?」
「そうでもないのかな? 実は貧乏だとか。って吉良さんが言ってましたー」
「? いきなり何言って、言ってましたー」
決められた日時に登城するのが一番大事であるが、うわさ話という情報収集も重要であった。
とはいえうわさ話は本人の前でするようなものではない。
今の「赤穂藩主だったような」
今の「内匠頭だったような」
今の「浅野だったような」
「・・・本人だったかな?」
「・・・顔真っ赤だったな」
・・・あの時、絶対聞こえてたよね?
「この間の遺恨覚えたか!」
・・・あの人、絶対怒ってたけど。
うわさ話、本気にしてなかっただろうか?
□□□
「殿?」
「ああ、早く届けに行くが良い」
命を受けた家来が立ち上がった。
「あ、それと」
「?」
「助力は惜しまぬ、とも伝えよ」
なぜ、家が?
とはいえ、主君の命令は絶対であった。