必
「投げ込まれていたのか?」
その手紙を見つけたのは明け六ぐらいで、見つけたのが庭を掃除していた中間と聞けば、あった場所は容易に想像がついた。
・・・池でなくて良かったな。
歴史のある、といえば聞こえがいいが、はっきり言ってしまえば古いだけの屋敷の庭で、唯一自慢できそうなのが池だった。水捌けの悪い立地を逆手に取った大池は、錦とはいかないまでも、釣ってきた鯉や鮒が放されており、藩主や家来の憩いの場になってはいたが、もしそこへどぼんと落ちていれば、乾かして読めるようになるまでに時間を必要としただろう。
まあ、その方が手間にならなかったか?
いやいや。
渡された紙は石を包んでくしゃくしゃになってはいるが、漉きこまれた繊維も目にまぶしい純白。
そこに“必”と墨痕鮮やか書かれている。
どう見ても、いたずらで作られたものではない。
こうして、その手紙は評定の場に持ち込まれる事になったのだった。
□□□
すっ。聞こえないはずの音を耳が捉えた。
見ずともわかる。揃っていると。
一段高くなった畳の上に藩主が現れると同時に頭を一斉に下げるのは家来として当たり前であり、それを見苦しくないよう一斉に行うのも、当たり前の事であった。
「楽にせよ」
とはいえ、毎日繰り返す事である。
常に気を張りっぱなしではなんなので、最初に頭さえ下げてしまえば、そこは気やすくもなった。
「それで、何かあったらしいな?」
代わりばえのしない日々にちょっとした刺激。問いかけられた家来は、「はっ」と短く返事をして件の手紙を、藩主へと捧げた。
「うむ、それで?」
当然、何が仕込まれているかわからない手紙を渡したりはしない。
読め、と命じられたわけでもないが、家来が包み紙を剥がし、サッと手を振るとパッと折り目が広がった。
少々格好つけた様子に藩主も興味をそそられ、「こ、これは?」との呟きと共に、となりの藩士が身を乗り出せば、その目の輝きも増すというものだった。
「かかる仕儀により、赤穂の浪士が討ち入りを計画している、と?」
「はっ。ゆめゆめ御油断召されるな、と」
どこか当惑した様子。
腑に落ちぬと顔に書いた家来眺めながら藩主は、額を無意識に撫でながらあの大騒動を思い起こしていた。
□□□
「この間の遺恨覚えたか!」
本当か嘘かは定かではないが、その叫びが発せられたのは、元禄十四年の江戸城であった。
叫んだのは、赤穂藩主浅野内匠頭長矩。
叫ばれたのは、高家吉良上野介義央。
場所は松の描かれた大廊下。
旧暦の三月十四日の出来事であった。
「マジかよ! 何考えてんのー」と時の将軍が言ったかも定かではない───というか、たぶん言ってない───が、面目を潰された彼が激怒したのは定かである。
「いや、聞いて! 夜も眠れないから!」。
後の歴史学者の声は届くことなく、赤穂藩主は即日切腹。
吉良上野介は咎め無しどころか、将軍から見舞いの言葉までかけられている。
「喧嘩両成敗が、という話もありましたな」
「何でだ? 喧嘩にもなっておらんだろう」
浅野内匠頭がおっさんなら吉良上野介はジジイ。
体力や機敏さを考えれば喧嘩にもならなかった理由はわかる。
「よくぞ、こらえましたな」
「左様、さよう」
吉良が反撃せず逃げただけだったのも大きい。
結局のところ吉良を恨む赤穂の浪士の思いは逆恨みであり、迷惑でしかなかった。
が。
□□□
「しかし、何故なにゆえ当家に密書が?」
書かれていたのは“必”だけだが。
家来が疑問に思うのも無理は無い。
そして、藩主の顔にもキズは無い。
吉良邸は───。
ここではなかった。
近所ではあった。
というか向かいであった。
「間違い、でござろうか?」
江戸時代、表札はまだ存在してなかった。
表札の元は明治になって「名字決めて」という要請に従わなかった家に業を煮やした役人が適当な姓を板で打ち付けたという説もある。
なら、江戸時代何で家を確認したかといえば、そう門番である。
木の板一枚で済むところに人を立たせるのを余裕と取るか、無駄と取るかは人それぞれだが問題はあった。
そう、門が閉まっている時間=夜だと確認のしようがないのである。
「向かい、だしなぁ」
「明るければともかく、暗ければ・・・」
右、左。中国で元になった姿形は違うのだろうが、似すぎている。
暗ければなおさらだ
「そうとなれば、早速届けに」
赤穂浪士の討ち入りがいつなのかは誰も知らない。たぶん暗くなってからだとは思うが、明るいうちから行動を起こしても正々堂々と言える。もたもたしていて、襲撃に間に合わなくなったら一大事である。
「では、それでよろしいですかな? 殿?」
藩主の顔が面白い。もとい顔色が白い。
□□□
参勤交代は有名な制度である。
が。
大名が一年おきに治めている藩と江戸を往復する事までは知っていても、江戸にきた大名が何をしているかまではあまり知られていない。
「まあ、モブなんだけどね」
「何か申されたか?」
地元ではトップ殿様でも、お城にくれば、ほぼまわり全員どんぐりの背比べである。
そんな殿様が集まって何をするかといえば、もっと偉い殿様のご要望に従うのだ。
具体的には。
「なになにの間に集合でござる」ぞろぞろぞろ。
「今度はそちらに集まるでござる」ぞろぞろぞろ。
「次は」ぞろぞろぞろ。
決められた日時に登城するのが一番大事であり、言われたまま移動するのも仕事の内であった。
しかも装束が装束である。
肩衣はまだいい。
なんとなく格好いいから。
問題は長袴である。
長い。
暑い?
歩きづらい。
三拍子揃った、文字通りなっがい袴は。
「あっ! 申し訳ない!」
自分のみならず、まわりにも迷惑な着物だった。
あの時、前の人の裾、踏んじゃったんだよなぁ。
顔から廊下の板に行っちゃったその人は。
赤穂藩主だったような。
内匠頭だったような。
浅野だったような。
「吉良殿!」
・・・あの時、全然関係ないところで、高家の人、呼ばれてたよね?
「この間の遺恨覚えたか!」
・・・顔を押さえたあの人、こっち見てなかったけど。
誤解を招いていなかっただろうか?
□□□
「殿?」
「ああ、早く届けに行くが良い」
命を受けた家来が立ち上がった。
「あ、それと」
「?」
「助力は惜しまぬ、とも伝えよ」
なぜ、家が?
とはいえ、主君の命令は絶対であった。