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「わあ、美味しそう」
ある晴れた昼下がり。私はバスケットを片手に、森の中を歩いていた。
手のひらには瑞々しい大きな桃。木陰を通った時、まるで「どうぞ」と言われたみたいに差し出された枝に実っていたものだ。なぜだかは分からないが、光魔法の持ち主は植物に愛されているらしい。
昔、別の場所で一人引きこもっていた時もそうだった。一人で外にいると、木や草がやけに生い茂り、まるで「食べて」と言わんばかりに果物や野菜が実るのだ。
もちろん私は人間以外と意思疎通はできないので、本当にそうなのかは分からないけれど。
ちなみに旅をしていた時は、こんなことは一度もなかった。だからきっと、魔王の存在か、誰かが近くにいるか――何か条件があるのだと思う。
「ありがとう」
私は素直に礼を言い、桃に齧りついた。
思えば、生きる気力を失いかけていたあの時、最初に私を生かしてくれたのは植物たちだった。
最初の一年の記憶はほとんど曖昧だが、なんとなく甘露のようなものを口に運ばれ、時々果実を差し出されていた気がする。
この世界の植物は、元の世界とほとんど変わらない。意思があるとか、不思議な力があるとか、そんな話も聞いたことはない。だから本当に植物が助けてくれたのか、それとも聖女だけが持つという光魔法の副産物なのか、私にも分からない。そもそも聖女自体の数は少なく、記録もほとんどなく明らかになっていないため、光魔法は未知の部分が多いとのこと。
「美味しい」
そう呟くと、木がふるりと震えた。
ちょうど吹いた風のせいか、それとも本当に意思があるのか……私には分からない。
でも、それはどうでもいい気がした。たとえ勘違いでも、胸の奥がじんわりと温かくなったのは事実。
ただその感情に素直になって、私はその木を見上げて微笑んだ。
人の手が入っていないこの森は一見おどろおどろしい。でも中に入れば、自然豊かで美しい場所だ。
木々の隙間から差し込む日差しは柔らかく、昨日の雨粒が葉の上でキラキラと光っている。
――周りから見れば不気味で、私にとってはとても居心地のいい場所。
なんだか秘密基地みたいで、少しだけ特別で。
だからだろうか、桃はいつもより甘く感じた。
「光!」
家へ戻ると、エルが玄関の外に立っていた。
「おかえり。どうしたの?」
今日は森では手に入らない備品を買いに村へ行っていたはずだが、その手にそれらしきものはない。代わりに、少し張り詰めた空気が漂っている。
「ただいま。……少し、話したい」
額に口づけを落とされると同時に、籠をさっと取られる。私は促されるまま家の中に入った。
「はい」
「ありがとう」
帰ってきたばかりのエルに冷たい紅茶を入れて、隣に座る。エルはしばらく言い淀んでから、深呼吸して私に向き直った。
「光、この村を出て一緒に旅に出ないか」
「いいよ」
「やっと慣れてきたここを離れるのは難しいかもしれないが…………え、いいの?」
言いにくそうにしてるなあ、もしかして難しいことを要求されるのかなあと少し身構えていたら、そうでもない内容だったので快諾する。しかしエルには予想外だったようで、目をぱちぱちと瞬かせていた。
「うん。私は構わないよ」
「光……」
「でも理由は教えて欲しいな」
彼が急に言い出したのには、きっと理由がある。
この人はいつも私のことを最優先にしてくれる。ここの生活にも慣れてきて、案外気に入っていると最近自覚し始めてきたところだったのだが、きっと私よりも私の感情に敏い彼ならとっくに気づいていたはずだ。そんなエルがそれでも旅に出ようと言うのなら、何か理由がある。
私だって、それくらい分かる程度には……彼を理解しているつもりだ。
「もちろん。……数か月前、城から来た手紙のこと覚えてる?」
「うん。聖女が狙われそうって話だよね。でもあれって冗談で流されたんでしょ。一応ここは王様の国だし、さすがに他国の人が好き勝手はできないんじゃない?」
魔物がいる世界とはいえ、人がいて社会があって、国がある。
聖女が欲しいと言っても、他国から人を攫うのは簡単じゃない。それに聖女がどこにいるのかはこの国の王でさえ知らないのだ。
だから正直、私はあまり脅威には感じていなかった。
「今日、村に不審な男がいた」
この村はかなり辺鄙で、人も少ない。顔見知りばかりだし、村人は娯楽に飢えているので、余所者が来ればすぐ情報が回る。
エルは警戒して咄嗟に姿を隠し、男が去ったあと村人から話を聞きまわったらしい。
「どうやら聖女を探しているようだ。ただ確信はなく、闇雲に情報を集めている感じだった」
「まあ、聖女って固有名詞は有名だけど個人の特徴はあまり出回ってないからねぇ」
ついこの間まで、聖女とは誰もが知っている物語に出てくるヒロインだった。慈悲深い性格で世界を救うという聖なる存在。その稀有な存在自体は誰もが認知しているが、その詳細はあまり知られていない。というのも、旅を円滑に進めるために私個人の情報はあまり公開されなかったし、第三王子の同行も大々的にはされなかった。一応希望を与えるために勇者と聖女一行が魔王討伐の旅に出た、というお触れは出していたようだが。実際私の容姿も城の人間くらいしか知られていない。それが結果的に今、幸運に働いているらしい。
「でも旅に出た方が見つかるリスクが上がるよね。それでもエルが行こうって言う理由が知りたいな」
「……光」
ここは辺鄙な村で、しかも私たちが住んでいる所は魔物の出る森の奥だ。確信がない限り、何度も調査に来る場所じゃない。
だから今日の不審者も、やり過ごせば済む話のはずだ。
そんな簡単なこと、エルが分からないはずがない。何か旅に出なくてはならない理由があるのだろう。
「……近隣の村で、黒髪の女性に魔力石を触れさせる集団が出始めているらしい」
「魔力石って、属性を調べるやつ?」
「ああ。光も城で試しただろう」
「ああ……召喚された後別室でやったかも。でもあれって大きくて持ち運ぶのは大変じゃない?」
「城のは魔力量も測るから大きいんだよ。属性だけ確認するなら小型のもある」
「ほう」
いまいち想像できていない私に苦笑しながら、エルは続けた。
「今は協力や謝礼という形だが、いつまで続くか分からない」
「…………」
「人は時間が経つほど、欲が膨らむほど、段々と過激になっていくからね。もちろん全員とは言わないが、聖女を欲する人間ならなおさらだ」
そう言ってどこか遠くを見つめるエルに、私も頷く。
聖女は、他人から見ればまだ物語に近い存在だ。魔王が倒されて魔物が昔に比べて弱くなったという事実を知っても、実際に聖女という存在を身近に感じることはないだろう。なぜならこの世界の誰もが使えないという上級治癒魔法を、実際にその目で見た者は少ないからだ。今はまだ眉唾物として、もし本当にいればばラッキーくらいの感覚だろう。
しかし、旅の途中でまったく魔法を使わなかったわけではない。
エルやかつての仲間たちは何度も傷つき倒れたし、道中立ち寄った町や村でも怪我人を何度も治療した。当時は特に口止めもしていなかったし、調べて行けば彼らの耳に入るのは時間の問題だろう。
そうなれば物語だったはずの存在は現実味を帯びる。本格的に調査が始まるかもしれない。
そして、私が城の中で厳重に守られているわけではないと知られたら――動き出す人間もいるだろう。
……それに加えて聖女は戸籍も親類も何も持たない異世界の女。
勾引かすなんて簡単だ。
「……と、普通は考えるんだろうね」
「ん?」
小さく呟くと、遠くを見ていたエルが私に意識を戻す。それに私は首を振った。
「ううん。……正直あまり心配はしてないなあ、と思って」
「どうして?」
不思議そうに尋ねる彼に私は身を寄せた。
「だって、エルが守ってくれるでしょ」
全てを失い、全てを私に捧げた今代の勇者。
――私は何も無いこの世界で、貴方だけは信じているのだから。
多分、光は違う種類のおねがいが来ると予想した




