番外1
「ぅわあ!」
「?」
とある森にぽつんと立つ小さな家の中。バスルームから珍しく悲鳴を上げるエルの声が聞こえた。
「?」
丁度二人分入れていた珈琲を両手に持ったままそちらを向けば、丁度足の隙間を毛玉が走り抜けて行った。
「エル?」
「あああ……床が水浸しに……」
脱衣所から出てきた半裸の彼は、ガックリとうなだれながらタオルで手足を拭う。
……昔に比べて随分所帯じみたな。それでも様になるのは美形の宿命なのか?
「私捕まえてくるよ」
「ああ、頼む。私は床を拭いておく……」
持っていたカップをテーブルに置き、我が家のペットを捕獲しに部屋を出る。
「おもちー、どこー? 出ておいでー」
風呂嫌いのあの仔が向かう先は大体決まっている。私は二階に上がって書斎にしている部屋の扉を開けた。
「やっぱりここにいたの」
「プ」
「君が水くらいじゃ風邪ひかないのは知ってるけどさ、早く乾かそうね」
「……ブプゥ」
「あはは」
若干不満そうに鳴いたのはこの家で飼っているペット。元の世界でいうところの兎に近い。この仔はエルが昔こういう仔を飼うのが夢だったという話を覚えていて、ある日森から拾ってきたのだ。
……私のネーミングセンスについては何も言わないで欲しい。だって白くて丸かったのだ。
「おいで」
「プゥ」
両手を差し出せばなんだかんだで乗ってくる可愛い仔。水にぬれてほっそりしている姿に笑いながら、下に降りる。バスルームを覗けば、床掃除を終えたエルがおもちのせいで濡れた体を拭いているところだった。
「相変わらず光の言う事だけは聞くなあ」
「エルがそういう魔法を使ったんでしょ」
「それだけじゃないと思うけどね」
にこりと笑いながら手を止めて、エルは新しいバスタオルを広げる。そこに兎を載せれば温風で包み込みながら軽くタオルドライ始めた。……相変わらず魔法の使い方が上手い男である。
「これでよし!」
「……ブブー」
ぺしょりと濡れていた体は元のふかふかな毛並みに戻り、エルは達成感からか兎の両脇に手をいれて持ち上げて喜んでいる。おもち自身は水浴びは嫌いなので何だか不満そうだが、抱っこ自体は好きなので大人しく体を預けていた。
そんな微笑ましい光景の中、ふとエルが首にぶら下げているペンダントに目が行った。
「……エル、それ」
「? ……ああ、これ?」
荒目なデザインの銀細工に装飾された魔石。年月が経って銀の部分は大分古くなっているが、丁寧に扱われているのが一目でわかる程磨かれていた。
「…………それ、数年前に渡したお守り……」
「あー、うん。他にも色々貰っているけど、初めて光から貰った贈り物だから手放せなくて」
普段一緒に寝るときは付けていなかったので気付かなかったが、こうやってまだ大切に扱ってくれている事に胸が温かくなる。
「もう。それ魔法残ってないじゃない」
「それでも特別な物だから手放しがたいものだよ」
少し照れくさいのか、少し明後日の方向に視線を逸らすエルに笑ってしまった。魔石や魔物の素材に特有の魔法を封じ込めたものを、この世界では魔術具と呼ぶ。それは持ち主が使いたい時にその保存した魔法を使えるというお守りみたいなものだ。
これを作ったのはもうだいぶ前なのだけど、エルは大事に持ってくれてたようでなんだか面映ゆい。
「だいぶ古くなったね」
「! ……たとえ光でも渡さないよ?」
「あはは、捨てないよ。……よっと」
彼が持つには不格好な細工とボロボロ加減なのに、取られまいと両手で隠す様は何だか面白い。そんな彼に近付いて、空の魔石に新しく魔法を込めなおした。
「光……」
「魔石自体は劣化してないようだから、明日彫金師の所に行って綺麗にしてもらおうか」
「ああ、そうしよう」
そう言って笑い合う私たち。きっとあの五年間からは考えられなかった関係だ。
一緒に暮らし、さらに籍を入れてから少し経った頃、私はエルから彼の過去を教えてもらっていた。
彼と共に生きていくことを決意して、私から強請った結果だ。彼が生まれ育って私が来る前までの話、私と出会った時の心情、そして私と別れた後の出来事や目論見。全て話してくれた。
途中で思う事もあったし、耐え切れず泣いてしまった部分もある。それでもエルは包み隠さず全部教えてくれたので、私も遮らずにただ手を握って最後まで聞いた。
「……ごめんね」
「?」
「…………ごめん」
そして静かに語り終えたエルと私の間には少しの沈黙が降り、そして私が発した最初の言葉はまたこの台詞だった。
「何で光が謝るの?」
「だって……」
彼の話は壮絶だった。私が受けた被害なんて比較にすらならないのではないかって、そう思えるほど。だからそれ以外の言葉が見つからなかった。
そんな私を見て、エルはゆっくりと口を開く。
「……光はさ、人の痛みに優劣があると思う?」
過去に自分だけが不幸だと、いっそ全てから逃げたいと思った事自体が、甘えだと思ってしまった。それに加え、過去に犯した最大の過ちをも思い出して言葉に詰まる私に、エルは静かに問い掛けた。
「……?」
罪悪感でエルの目が見れなくなっていた私は、彼の言いたいことが分からずに視線を上げる。そこに私を責める色は一切なく、ただ静かに凪いている瞳があった。
「確かに私の過去は、光から見たら壮絶に映るのかもしれない」
「……うん」
「けれど悲しいとか辛いとか、人がそう思う感情に優劣はない。そう私は思うんだ」
そう言って、エルは握っていない方の手で私の頭を撫でた。
「こちらの方が悲しい、あちらの方が苦しい。そんな比較自体に意味はない。傷を負ったら誰もが痛いと感じる。そこに違いは無い」
「…………」
「だから。私の方が可哀想だから自分は悲しんではいけないのだと、そうは思わないでくれ」
「……エル」
「光が感じた痛みは本物だ。理由をつけて平気な振りをするな。その傷は確かに貴女を痛めつけているのだから」
「……っ」
「痛いのなら思い切り泣けばいい。吐き出したいのなら遠慮せずに愚痴を言えばいいさ。手に余るのであれば、どうか助けを求めてくれ。……今は私が傍にいる」
そう言われて気付いた。また自分の感情に蓋をするところだった。
私ですら無意識だった心情をいち早く察知する彼にたまらず抱き着くと、お返しに両手で包み込むように抱きしめられた。
「ま、私が言えた事ではないかもしれないけどね」
しんみりした空気を和らげるように、彼は少しいたずらに笑う。一方私は嗚咽が出ないよう必死だった。あまり泣くのは好きじゃないのになあ。
「わ、わたしも……」
「?」
エルを見上げて不思議に思う。昔はあんなにも嫌いだったのに、今は離れがたい程愛おしい。
「今度は、エルの力になりたい」
人間とはなんと勝手な生き物なのだろう。
こうあるべきだという理想は知っている筈なのに、必ずその行動を取るわけではない。
彼らは始めに私に真実を話し、誠実に説得するべきだった。
私は彼らの事情を理解し、協力すればよかった。
けれど不安や憎しみが事態を歪ませ、結果多くの人がより苦しむという結末を生んだ。
それは今回だけの話ではない。この不条理は昔から変わらない。歴史を振り返れば、人類は同じことをずっと繰り返してきている。
人は正義だけでは動けない。それぞれ譲れないものがあり、事情があり、負の気持ちもある。
道義は立場によって入れ替わり、心は時間と共に変化する。
……それでも。
「もう守ってもらうだけじゃなくて。……傷付けるだけじゃなくて」
ここまで私の事を想ってくれる人が他にいるだろうか。私ですら気付いていなかった気持ちに寄り添い、否定も諭す事もせず、ただ待った。……あんな目に遭ってさえも。
普通ならとっくに私を見捨て、罵倒し、憎しみの感情を向けるだろう。そこまでしてくれる価値が私にあるとは今でも思えない。だけど、それでも彼はただひたすらに真っ直ぐな愛情を注いでくれるから。
「私は強くはないけれど。……間違った選択だってしてしまう事もあるけれど」
もう昔みたいに言い訳はしない。勿論過去を忘れるという意味ではないけれど、それを理由に自分自身の気持ちを縛る事はもうやめた。
私だって、今はもうエルがかけがえのない存在だと自覚している。
ずっと魔物から守ってくれた広い背中。
私のせいでボロボロになった姿。
今、私を優しく見つめる穏やかな瞳。
全てが愛おしい。
「エルが大切だから、力になりたいよ」
「!」
過去の想いと、今こうして隣にいる奇跡の有難さに感情がごちゃごちゃになる。
溢れる想いが涙となって、ぽろぽろと瞳から零れた。
「好き。好きなの」
「……っ」
「だから、ずっと傍にいて」
「っ、ああ」
涙で視界が滲むけれど、今の健康な姿のエルを目に焼き付けたくて彼を見つめる。エルは何かを耐えるようにくしゃりと顔を歪ませると、強く私を抱き寄せた。
「光……。ああ、ずっと傍にいる」
「エル」
その言葉に私は再び胸がいっぱいになり、目を閉じる。
「貴女がこの世界で目を閉じるその日まで。ずっと共にあろう」
「うん」
そして唇に感じた熱に、今度は幸せの涙が零れた。
お久しぶりです。予告していたWEB版番外編をアップしました。ただいま7:18。何とかギリギリ書籍発売日に間に合いました。なので宣伝もさせていただきます。
本日「これで満足しましたか? ~略~」書籍発売日です。よろしければ読んでいただけたら幸いです。(コミックシーモア様のみ先行発売)
エルの過去やWEB版には入れなかった要素、その後の物語をいくつか入れています。
そして別件ですが、はじまりの魔王ことアンについて。
感想でアンが可哀想すぎる!幸せになって欲しいとの声が多かったので、アンを幸せにしようかなと思い、別連載始めました。
「これで満足しましたか? ~略~」の書籍発売に合わせて暴露しますが「3つ目の世界で~略~」の主人公がアンの生まれ変わりです。
これで満足しましたかの内容は引き継がないので、この裏設定はネタバレにはならないため心配な方は安心してください。あくまでアンが贖罪後、記憶まっさらな状態で転生した後のお話と考えていただければいいかなと思います。
それでは、ここまで読んでいただきありがとうございました。




