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何かがそっと濡れた頬を撫でる。
その感触で意識が浮上した。
「・・・・」
「体は平気?」
最近ではお馴染みの金髪が、当然のように私を覗き込んでいた。
「ここは?」
「ヒカリの家だよ。あの後ヒカリが気を失ったから、管理者に送ってもらった」
「? ふーん」
起き上がるとサッと水の入ったカップを差し出された。喉が渇いたのでそのまま頂く。
「そういえば願いは言ったの?」
「いや、私が勝手に決める訳にはいかないよ。保留にしてきた」
「保留? 出来るの?」
あんな特殊な出会い。一期一会、女神の前髪的な存在だと思ったんだけど、案外気前がいいのか。
「本当はしないらしいが、ヒカリを気に入ったからまた呼ぶと言っていた」
「へえ」
ベッドから降りると、エルが淹れた紅茶の良い香りが漂う。
「えっと、少し話がしたいんだ」
「そうだね。私も色々聞きたいことがあるし」
その言葉にエルの体が一瞬止まるが、何事も無かったかのように再び動き出した。それに気付かないフリをして、私もお茶請けのクッキーとドライフルーツを用意する。
「さて、何から話そうか」
「・・ヒカリ。ヒカリはどうしたい?」
前置きを飛ばして、エルは本題に切り込んだ。
「・・・・」
宝石のような瞳は真っ直ぐと私を見つめ、答えを待っている。だから私も結論から言った。
「私は、転移術に関連する全ての情報を消し去りたい」
魔王化のことも気にはなるが、正直私にとって優先度は低かった。
「もう私やはじまりの魔王、日記を残した一つ前の聖女。それと魔王に転化した歴代の聖女たち。この悲しい連鎖は続くべきじゃない」
「ああ」
「酷い事を言っている自覚はある。けれど、この気持ちを関係ない人に受け継ぎたく無い」
一つ前の聖女は私に「待っていた」と言った。そして待ち侘びたように私の浄化を無抵抗で受け入れ、消えていった。
日記に彼女自身のことは書いてなかったので分からないが、きっと彼女もまた彼女だけの悲しみや絶望があったのだろう。
「そうか。ならそれを願いにしよう」
「・・っ」
先程言っていた事は本心だったようで、エルはすんなりと私の提案を受け入れた。
それがどんな結末を生むかを分かっていながら。
「エルはそれで本当にいいの」
「ああ。だが懸念が一つある」
まあそうだよね。予想通りだ。
エルは自分を犠牲にする事はあるけれど、他人にそれを強要しないはずだ。
だって魔王化の呪いを解かないという事は、エルだけじゃなく全世界の人達を犠牲にするという事なのだから。
思った通りの反応に内心ホッとする。
「懸念って何」
「・・ヒカリが魔王になる事だ」
予想外の言葉に再び混乱する。
「・・は?」
「傷付いた人々を見て涙を流していた貴女が、魔王となり間接的にとはいえ、魔物を強化してしまうことにきっとヒカリは心が痛むだろう。そう思うと・・とても苦しい」
「・・私の心配? そんなものより大切な事があるでしょう」
この期に及んで私の心配をしている事に少し呆れる。それと同時に私の心情を誰よりも理解している彼に、苦い思いが広がった。
私が魔王になっても、自らこの世界の人たちを襲いには行かないだろう。けれど魔王は存在するだけで魔物を強化してしまう。
「聖女を失うのは仕方がない。生き残りたければ、この世界の人々が新しい魔術や技術なりを見つけなくてはならない」
「でも、それは」
「言わないでくれ。・・死にたくなければ、この世界の者が死ぬ気で模索するべきだ」
きっと魔王を消す方法は無い。長い歴史の中で何も試さなかった筈が無いだろう。エルも薄々分かっているが、私の為に言わないのだ。
この男は本当に、どこまでも。
「我々のことはいい。それよりもヒカリ、貴女は魔王になっても大丈夫か。悔しいが、私はその役を代われない。悪ぶっていても悪になりきれない優しい貴女は、きっと・・苦しむだろう」
「・・・・」
テーブルの下でグッと拳を握った。
どうして私の心配をする。どうしてそこまで私を優先する。
エルが私を理解しているのと同じように、私も彼の気持ちが分かっていた。これは苦渋の決断だ。その上で私を、聖女たちを選んだ。
あんなにボロボロになってまで守った世界を壊してしまってもいいと言うのか。誰よりも誠実で真面目な彼が、まだ見ぬ百年後の関係ない人達の命を差し出すと言った事は、きっと身を切られる程に痛く心を傷つけている筈だ。多くの恨みも買うだろう。
けれどそれをひた隠し、私が迷わないように言い切った。
本当は他人を巻き込むのを心の底から厭っている。それは亡くなったらしいお兄さんへの思いや、今まで必死に走ってきた過去、そして未来さえも全て捨て去るような行為だからだ。
「・・・・ぁ」
そこまで考えて、唐突に理解した。
「ヒカリ?」
黙り込んだ私に眉を下げて心配する表情が、檻に入れられて死んだように眠っていた時の顔と重なる。
「・・っ」
ぽとり、と涙が溢れた。
彼もまた、私と同じで未来と過去を。
私のために捨てる覚悟をしていたのだ。
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