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「ヒカリ」
それから、王子様と毎日顔を合わせるようになった。
「エル」
特に約束はしていない。会話も何の料理が美味しいとか今日何があったとかどうでもいい話ばかりだ。
その頃にはお互い名前や愛称で呼び合うようになっていて、恐れ多い身分の人のはずなのに一番気軽に話せる仲になっていた。
「今日はお菓子を持ってきたよ。この前ヒカリが話していた前の世界の食べ物に似ているのではないかと思って」
「わあ! ありがとうございます」
にこにこと王子様が笑って言うと、給仕がクロワッサンのようなものをサーブした。
この世界の食べ物はお菓子含め、元の世界とだいぶ違う。
甘いものといえばフルーツやコンポート、パンに蜂蜜を掛けたりとシンプルなものだ。
「これは?」
「食べてみて」
だから目の前のクロワッサンも蜂蜜やジャムを掛けろと言う意味だと思ったのだが、見当たらないので王子様に問いかける。すると笑顔で勧めるのでそのまま食べてみる。
「!!」
「どう?」
「・・美味しいです」
「ならよかった」
さっくりとした感触に甘い砂糖と香ばしいバターの香り。見た目はただのクロワッサンだが、食べてみるとそれはラスクだ。
この世界にラスクはない。食パンも無いのでおそらく代用できるパンを探したのだろう。
何気ない日常会話の中で会話しただけの内容。それを王子様は覚えていて、きっと私に内緒でシェフの人と試行錯誤してくれたのだ。
「ありがとうございます」
「ふふ」
何のこと? と言わんばかりに首を傾げる王子様。
この世界に無い食べ物なので、私の会話からこのラスクを再現するのはとても大変だったはずだ。
王子様には私が故郷をどれだけ恋しがっているが、そしてこの世界で期待されていることが重いという悩みを既に話しているので知っている。というか言う気はなかったが巧みな話術でいつの間にか吐露していた。
その会話の中には今日のように懐かしい食べ物というどうでもいい話もたくさんあったのに、王子様はどれも丁寧に聞いてくれ覚えている。
その表面上だけの優しさじゃない心遣いがとても嬉しくて。
初めてこの世界で心から笑えた。
「ヒカリ?」
夜、出入り自由と言われている庭園のベンチに座っていた。
今日はなかなか寝付けず、気分転換にしばらく散歩した後ベンチでぼんやりしていたところに後ろから声を掛けられた。
「エル」
振り返ると美貌の王子様が練習用の剣を片手に近寄ってきた。
「こんな時間まで訓練ですか?」
「まあ強く在らないといけないからね」
苦笑しながら王子様が隣に座り、もう片方の手に持っていたショールを私の肩に羽織らせた。
「ありがとうございます」
「夜は冷えるだろう」
運動後で少しの汗をかいているにも関わらず、月明かりを浴びた王子様はきらきらと輝いていた。
金の髪が柔らかく光を反射し、整いすぎた顔の造形も相まって人というより精霊のようだ。
こんな見た目なのに夜遅くまで鍛錬してるとか性格まで完璧か。
「ヒカリこそこんな時間まで何を?」
「・・眠れなくて」
褒めているのか貶めているのか分からない私の心の声は知らず、王子様が心配げに私を覗き込む。
翡翠の瞳は怖いくらい透き通っていて、心の中を見透かされさそうだ。まあ精神干渉の魔法はこの世界にないのだけど。
黙って続きを促される。話したければ話して、話したくなければ話さなくていいとその目が言っていた。
これが他の人なら誤魔化して部屋に帰ったけれどこの1ヶ月、王子様にはとてもお世話になりその日あった出来事や小さな愚痴を言えるような間柄となっていたので、特に抵抗なく眠れない理由を口にした。
「今日、魔物の被害に遭った人に会ったんです」
そう。今日はいつもの授業とは違い、城下町の一角に連れてかれた。
そこで見たのは家族を亡くした子供達や体に一生治らない傷を負った人たちだ。
そういうのは元の世界でもあって写真やニュースで知っていたけれど、実際会ったのは初めてだった。
子供達はみんな笑顔が無かった。生気のない目やぎらぎらと憎しみに燃える瞳、あるいは全てを諦めたような目をしていた。そんな表情は元の世界でもこの世界でも初めて見て。・・正直怖かった。
「・・大丈夫?」
「はい」
いつの間にか肩が震えてたのか、王子様が私の肩にそっと手を置く。
「私、魔王の脅威ってどこか物語の中の話だと思ってました」
授業で聞く魔王の話や侍女たちの会話は私にとって非現実で、どこか童話を聞いている気分だった。
魔物と戦争していると言われても、魔物も戦争という言葉もピンとこない。
それより早く元の世界に帰りたいなとしか思っていなかった。
「・・でも、現実にいるんですね」
腕を無くした人の怪我も見た。その怪我を見て血の気を失うような感覚を覚えた。
命があっただけ奇跡だとその人は言っていたが、やはり不便だし未だに時折痛むようだ。
そしてそんな危機は今この時も進んでいるのだと、その場に連れてきた教師が言っていた。
「ヒカリ、」
「私・・色々考えました」
各地の傭兵やお城の騎士達は人々を魔物から守るため日々戦っている。
戦いの無い日は年々強くなる魔物に匹敵するように毎日鍛錬を欠かさないという。・・今の王子様のように。
それでも被害は止まらない。なぜなら魔王が復活し、魔物も相当なスピードで強くなっているからだ。
その原因である魔王はどんなに強い戦士でも倒せない。光属性の魔法が打てない限り、その存在は消えないのだ。それがこの世界の人である限り。
きっと、いつか人側に限界が来る。
だから私は呼ばれたのだろう。
「・・私の力でしか魔王が倒せないのなら、協力します」
複雑な心境を抱えたまま宣言した私の言葉にヒカリ、と何かを呑み込むような顔をして王子様が私の手をそっと握った。その手から伝わってくる震えに気づいて、王子様をじっと見つめ返す。
「エル・・」
王子様はあの日以来、私に一度も魔王討伐してほしいと急かさなかった。
王様や教師、侍女たちはみんな早く魔法を覚えて魔王討伐の旅に出てくださいと言わんばかりだったのに。
本当は知っていた。王子様がほぼ毎日のように魔物討伐に行っていたことを。
この世界は王族が危険な前線に出なければならない程、切羽詰まっているのだ。
けれどそんなことをこの王子様は一言も言わず、毎日私のところに顔を出しては話を聞いてくれていた。1ヶ月しか過ごしていないが毎日会話していればどんな人か大体分かる。
そんな優しいこの人はきっと私みたいな戦ったことすらない女に、死地に行ってくれというのは本当はすごく嫌なのだろう。でも聖女しか魔王を倒せないのはこの世界の決して覆らないルールで。
魔王を倒さないとこの世界の人たちが死んでいく。王族としての責務とこの人本人の意思がいつも葛藤していたのは知っていた。
「ありがとう」
「っ」
すまない、と消え入るような声で囁かれる。
本当は。本当は怖くて怖くて逃げ出したいけれど。あんなの見せつけられてしまってはもう知らない関係ないとは言えないじゃないか。
そして何より、私の手をぎゅっと握って震えるこの人の力になりたいと思った。




