しとしと 16
しとしと 16
「お前はそんなに私が嫌いだったのか?」
市郎の声は哀しみを帯びている。
「・・・いいえ」
安はこの状況をやっと受け入れたのか、口を開いた。
「あなたが嫌いだったわけではないのです。ただ、私は苦しかった。あなたとの生活が苦しかった」
「苦しい?どうして?俺はお前にそんなに苦労を強いていたか?」
安は首を振った。
「いいえ。あなたは親切でした。人の紹介だったにも関わらず私を気に入ってくれ、農夫の娘を嫁にしてくれた。あんな立派な船宿の女将にしてくれた。私の父、母、兄弟にも十分尽くしてくれた」
「そうだ、俺は夫として出来る限りのことをしたじゃないか」
「はい」
安は素直に頷く。
「あなたには何の悪い所もありません」
「じゃ、なんで」
市郎は声を荒げた。
「結婚した時、私はうれしかった。あなたは親切だったし、暗いうちから田畑を耕す貧しい生活からすれば、船宿の仕事はずっと楽しかった」
でも、と安は言葉を飲んだ。
「どんどん、私は貴船での生活が苦しくなっていったのです」
「だから、それはなぜなのだ?」
安は顔を歪めて唇を噛んだ。そしてじっと膝に置いた自分の手を見つめた。
「あなたは、私を認めてはくれなかった」
絞り出したかのような枯れた声だった。
「あなたは私に怒ったり、怒鳴ったり、ましてや殴ったりなどしたことはなかった。でも、あなたはいつも私を否定した」
安は顔を上げた。
「私は知らず知らずにあなたを恐れるようになった」
「私を恐れる?」
市郎は耳を疑うかのように首を振った。
「一つ、一つは些細な事でした。朝、あなたより遅く目覚めるとあなたは言った。『農家は暗いうちから起きるから、家の娘は朝寝坊などしないとお義母さんは言っていたけど、私より起きるのが遅いなんて。疲れているのかい?身体は人一倍丈夫だと聞いていたんだけどな』。私の料理も『料理上手と聞いていたのに・・・。まあ、食べれなくないから大丈夫だよ。早く家の竈に慣れて美味しいものを食べさせておくれ』。貴船の仕事でも『そんな辛気臭い顔をしてちゃ、お客が逃げて行くよ』と言うから、笑顔ではきはきと客に声を掛ければ『町中に響くような声だね。あとその笑顔、宿の客引きじゃないんだから下品過ぎるよ』。
あなたの声の調子は優しかった、だから私は怒られているわけではない、私が至らないからいけないんだと、いつも自分に言い聞かせていました。でも、私の中でどんどん苦しさが溜まっていった。子供が生まれた頃にはあなたの顔を見るたびに自然と身体が構えてしまうようになっていました」
「私はただ改めて欲しいことを口にしただけで、お前を責めたり怒っていたわけではない」
安は静かに頷いた。
「分かっています。あなたは何も悪くない。でも、子供が生まれてからは尚更私は、あなたの一挙一動に怯えるようになっていた。あの日、山賊に襲われた、あの日。恐怖と痛みに襲われながら、それでも私はこれでやっと解放されると、死ぬんだと、死ねばもう終わりなのだと、
私、ほっとしたの」
安の最後の言葉は市郎を激しく揺さぶった。
蝶たちが大きく動揺する市郎の霊力を押さえきれず、ボコボコと羽があちらこちらでうねる。
黎人が市郎の背中の一点を指で押さえ、「沈」と一言、霊力を注いだ。うごめいていた市郎が嘘のように沈まる。
「なぜ、私に言わなかったんだ?」
絞り出された声は震えている。
「何を言えば良かったのでしょう?」
安ほ本当に分からないと首を傾げた。
「あなたの助言が負担なんだと言えばよかったのでしょうか?あなたは夫してすべきことを完璧にしていた。そんなあなたに対して不満があるなど、私は思ってもいけない。私自身がただただ足りないだけだったのだから。妻として母として私は何もかもが足りなかった。だから、申し訳なかった。あなたの傍にいることが、申し訳なかったし苦しかった」
ブルブルと市郎人形が震えだす。
「私は、私は、縁あって夫婦になったのだから、良い夫婦になりたかったんだ。だから、お前が誰から見ても良い妻だと言われるように、誰にも恥ずかしくないように」
「私はあなたの言う良い妻に近づけていましたか?誰が見ても恥ずかしくない人間になれていましたか?」
市郎の言葉に重なる様に放たれた安の叫びは市郎を刺した。
小刻みに震えながら市郎は何とか言葉を吐き出した。
「お前はいい妻だった。仕事も家のことも子供の面倒も私の親の世話も良くしてくれた。本当に良い妻だった」
安の瞳に光が宿り、大粒の涙が流れ落ちた。
「それが、その言葉が聞きたかった」
床に頭をこすりつけながら安は泣きじゃくった。
「私は、いつもどこかで腹を立てていた。こんなにしてやっているのに、どこか他人行儀なお前に。顔は笑っているのにお前の目はいつも怯えて、私を責めているようで」
あはははははは、渇いた笑い声が響いた。
「私はお前を探さなければいけなかった。良い夫は妻を絶対見放さないものだ。どんなことがあっても妻を導かなくてはいけないのだから」
ははははははは、市郎は笑い続けた。
「私が間違っていたのか?」
笑いながら市郎は問うた。
安は泣きながら首を振った。
「あなたは間違っていない。ただ、私たちは本当の夫婦にはなれなかったのです。あなたは良い夫であり、父で、立派な主でした。だから、自分を責めないで下さい。どうか、安らかに・・・もう、私のことなど忘れて安らかにお眠り下さい」
安は額を床に擦りつけ両手を合わせて市郎を拝んだ。
狂ったように笑い続けていた声が止まり、その場は静まり返った。
市郎はしばらくの間その静寂の中にたたずみ、安を見つめていた。
やがてゆっくりと黎人の方へ向き直った。
「ありがとうございます」
小さいがはっきりとした声だった。
そして、ピクリとも動かなくなった。
市郎の形をした人形はただの紙の塊のようにそこに留まっていた。
遠巻きに二人のやり取りを見ていた、武千代、良房、忠平、葉、鈴は無言で顔を見合う。
「さあ、旅立ちの時間だ」
シャン、と黎人の鈴の音が鳴った。
「死はそこにあるのに目に見えぬ
生もここにあるのに目に見えぬ
人は自分の心にしか従わず
心は自分の意には添わない
手を伸ばしても、伸ばしても
その手に掴める物はほんのわずかな欠片だけ
それでも人は手を伸ばす
生きる意味を知るために」
シャン、シャンと鈴の音が空間に広がり埋めていく。
「村山の市郎、今、泉下の客となる」
シャン。
一際大きく鈴が鳴ると、市郎の人形から、一羽、また一羽と蝶が羽ばたいていく。黒い邪気が蝶と一緒に空に舞い、そこに痩せた男が立っていた。
眉毛のハッキリとした少し垂れた目で市郎は安を見つめていた。
口元は少し笑っているようだった。
安がその姿に手を伸ばすと、さらさらとそれは砕け散った。
「あなた・・・」
安はまた床の頭を擦りつけ手を合わせた。