しとしと 15
しとしと 15
梅と呼ばれるその女は色黒で痩せこけていた。
「お安さんですか」
良房たちが調べてきた本名を黎人が呼ぶと、その目が大きく見開いた。
「なぜ、その名前を」
見開いた瞳に恐怖の色が浮かぶ。
「大丈夫」
黎人は優しく微笑んだ。黎人の微笑みは菩薩の微笑みに近い。向けられた者は皆安心感を覚えるのだ。梅と名のる安も緊張を解いた。
「私は都で陰陽師をしている者です。ぜひあなたに会っていただきたい霊ひとがいるのです」
「私にですか?」
安はポカンとした表情で聞き返した。
「そう、あなたに。そして、その霊にあなたの本当の気持ちを話して欲しいのです」
「私の気持ち・・・」
安は黎人の言葉を繰り返しながら、ハッと身を固くした。黎人の会わせたい霊というのが誰なのか察しがついたのだ。
「市郎さんですか?」
その声は震えていた。
黎人は大きく一度頷いた。
「亡くなられたのです。そして、成仏できなかった」
静かな声が、空の膳や料理前の野菜などが整然と並べられた板の間に浸透するように響く。
「あの人が・・・」
安の口からその続きは出てこない。
黎人も他の者もじっと安の中でこの事実が理解されるのを待った。
安は虚ろな目で天井を仰ぎ、暫くの間動かなかった。
そして、もう一度、「あの人が」と呟いた。
「市郎さんには大きな心残りがあるのです。そのせいでこの世にしがみついてしまっている。だから、それを解いてあげたい。そして、それを解くことはあなたにしかできないのです」
安は何も映っていない瞳に黎人を映した。
「あの人は私が生きていると思っていたのでしょうか?」
「ええ」
「私が盗賊に攫われた後、探していたのでしょうか?」
「ええ」
その時初めて安の瞳から一筋の涙が流れ落ちた。
「攫われて、死んだと諦めてくれたと思っていました・・・」
「市郎さんは皆に死んだと思って諦めろと言われても諦めず、人の言葉には聞く耳を持たず必死であなたを探していた。私は市郎さんにはあなたが生きていること、そして自分の意思で戻ってこないのだという確信があったと思っているのです。そして、その思い込みこそが市郎さんをこの世に留めている妄執になっているのだと思うのです」
安は初めて黎人の方に顔を向けた。
もうその瞳に涙はない。ただ暗く深い哀しみが浮かんでいるだけだった。
「市郎さんと話をしてくれますか?」
「それはどういう・・・」
安には黎人の言っていることが解らなかった。
「今から市郎さんの霊魂をここで起こします。市郎さんと話をして下さい」
黎人は懐から市郎を封印していた小袋を取り出した。そして、その口を広げた。
その瞬間、中から黒い霧がモヤモヤと出てきた。黎人が袖を振ると数十羽の紙の蝶がハタハタと飛び出しその霧を囲んだ。
そして張り付いた蝶たちが子供ぐらいの大きさの人に形作られていく。
その背に黎人が一枚の札を張る。
「深き眠りから覚め、過去の自分を思い出せ」
黎人が一気に霊力を注ぐ。
人形の顔に目と口が浮かび上がり、目が開いた。
小さな紙の人となった市郎が目覚める。
起きた市郎はキョロキョロとあたりを見渡した。
そして、目の前の女性の顔に視線を留めた。
「安か・・・・」
安はポカンと口を開け動けなくなっている。
「やはり、生きていたんだな」
市郎はその漆黒の瞳で安を見つめた。
「なぜ、俺を、家族を捨てたのだ」
安は目の前の出来事が信じられず、ただ瞬きを繰り返した。
「邪気が消えて普通の霊になっている」
二人のやり取りを見ながら、忠平が小声で驚きを囁く。
「父様は今回家を出るのに大量の霊気使って自分の式神を作って来たので、霊気が減っていたんです。それで、あの蝶の式神を使って、近隣から霊気を集めておいたみたいです」
「それにしても、すごいな。この短期間で怨霊を無害化するなんて」
良房も感心する。