雨と涙④
家には驚くほどスムーズに着いた。
途中通行人に野宮さんの傷を見られて驚かれるようなことはあったが、一番警戒していたあの女と遭遇すことも無かった。
俺と野宮さんが玄関を開けると、先に帰ってきた妹から話を聞いていたのか姉がすぐに出迎えてくれた。
幸い野宮さんの肩の傷は深くなく、病院に連れて行くほどでもないと姉が処置して今は妹が着替えなどを手伝っている。
ただ…
「説明してハル君。あの子とはどういう関係なの?なぜ家に連れてきたの?どうしてすぐ家に帰ってこなかったの?お姉ちゃんに連絡してくれればすぐに迎えに行ったのに…」
俺を待っていたのは姉の質問攻めだった。
「思緒姉ちゃん…いや、だからたまたま帰り道に出会って怪我してて…それに不審者もいたし…」
「だからこそ、お姉ちゃんは心の底から貴方のことを心配してるのよ」
「…分かってるよ…」
その真っ黒な瞳で睨まれると逆らえない。
家内思緒は俺の姉である。
家内家の長女で現在21歳、俺と妹の真実とは5歳の差がある。
成績優秀、容姿端麗、運動神経抜群、おまけにスタイルも良い。
何故あの父と母からこの姉が生まれたのか、不思議で仕方がないほどの突然変異。
俺と妹は2卵生の双子のため似てないのも頷けるが、姉はそれに輪をかけて家族と似ていない。
足元まで届くほどの長い黒髪に切長の目、感情の動きを一切表に出さない大きな黒い瞳はその容姿と相まって近所では小さな頃から有名人だった。
身長も今では一家で一番高く、俺とは顔ひとつ分ほどの違いがある。
俺は理由を知らないが、なぜか高校3年の春から不登校で現在3留中の引きこもりという一点を除けば正に完璧と言える姉だった。
はぁ…と思緒姉ちゃんはひとつ息を吐いて正座したままその黒い瞳を俺に向ける。
「ハル君はお風呂に入りなさい。野宮…さんのことはお姉ちゃんが家まで送ってくるわ」
「え、でも」
「でもじゃないわ。もし不審者に遭遇してもハル君じゃ対応できないでしょ?」
…確かに俺では女とはいえ刃物を持った相手に挑めば最悪の結末を迎える可能性の方が高い。
では思緒姉ちゃんならばどうか?答えは簡単で俺よりも遥かに頼りになる。
確か中学の頃は格闘技の習い事を受けていた筈だし、高校一年の時には実際に暴漢を返り討ちにしていた。
しかし…だからといって女子ふたりで送り出すというのも…なにより帰りは姉一人だ。
「ハル君」
俺が答えを出せないままなのをどう認識したのかは分からないが、思緒姉ちゃんは優しく俺の頬を撫でる。
「貴方は何も心配しなくて良いのよ。全てお姉ちゃんに任せなさい。」
「…うん」
その声は優しく、じんわりと俺の耳を通して脳に響く。
昔から姉の言うことに逆らえない。
両親曰く思緒姉ちゃんは率先して俺の面倒を見ていたらしく、赤ん坊の頃から常に一緒だったことも関係してか俺に対して多少過保護な面が見られた。
結局思緒姉ちゃんの言う通りに事が進み、野宮さんは思緒姉ちゃんが送ることとなった。
髪を乾かし、着替えた野宮さんの印象は先ほどまでと打って変わり、男子達の使う清楚と言う言葉がぴったりである事が俺にもよく分かった。
玄関口で靴を履き、俺に向き直った野宮さんはお礼を言ってくれた。
「家内君、ありがとう…」
「いや、俺は結局何もしてやれなかったし…」
他人に面と向かってお礼を言われたのなんていつぶりか…
ふと野宮さんの後ろにいる姉と俺の後ろからの視線を感じ、慌てて言葉を繋げる。
「とにかく気をつけてな」
「うん、また来週学校でね」
「え?お、おう」
「野宮さん、そろそろ行きましょう。暗くなっては危険が増すわ」
「はい…お願いします」
思緒姉ちゃんの言葉に慌てた野宮さんが玄関から外に出て行き、それと入れ替わるようにして思緒姉ちゃんが俺の耳元に口を寄せてきた。
「今日は一緒に寝ましょうね」
この時期は暑苦しいのもあって頻度は少ないのだが、昔から姉は俺を抱き枕のようにして寝るのが日課であり「お姉ちゃんの言うことは聞くべきよ」という理由で俺に拒否権は無かった。
俺が顔を引き攣らせていると、野宮さんが玄関先で小さく手を振っているのに気づいて俺もそれに応えるように手を振った。
「さあ野宮さん行きましょう」
思緒姉ちゃんに連れられて、野宮さんは家路に着いた。
「疲れた!」
シャワーを浴びて、自分の部屋のベットに倒れ込む。
「2人とも大丈夫かな…」
やはり自分もついて行った方がよかったかもしれない。もちろん俺1人増えたところで姉にとってみれば守る存在が増えるだけで意味はないかも知れないが、帰りに出会ったあの女の顔が今も頭を離れない。
いや…そもそもあいつは俺と妹の名前を口にしていたのだ。
「あ…伝えてない…」
そう…状況の説明ばかりに気を取られ、俺と真実の名が出たことを思緒姉ちゃんには伝え忘れていた。
まずい、よく考えればあの女の狙いが野宮さんと俺と妹だけだとは限らないじゃないか。
「やっぱり着いていくべきだった!」
ベットから跳ね起きて、階段を降りる。
「あ、お兄ちゃん」
階段を降り切ったところで妹に声をかけられた。
「今学校から連絡回ってきたんだけど、不審者捕まったって」