白❶
「ぐすっ…うっ……ぅぅ…」
中学校の卒業式当日、私はトイレで泣いていた。
卒業したくない。
それはこの学校に思い入れがあるわけでも、同級生と別れるのが辛いわけでもない。
この頃の私は人の視線に酷く怯えていた。
そして大人になることを怖がった。
一日、また一日と迫るその日。
高校を卒業した以降の自分の人生がどれほど悲惨なものになるか…考えただけでも心が押し潰されそうになる。
父と母の中にはもはや、娘としての私はいない。
私の心は空っぽなのに…誰も気づいてくれない。
今日だって、私がいなくても卒業式は着々と進められ…今も教室では担任の薄っぺらい挨拶が続いていることだろう。
誰も私に興味なんてない。
「泣いてるのか?」
その声は突然、トイレの小窓から聞こえた。
小窓と言っても中学生の身長では届かないような場所にあるため、正確には壁の向こうに声の主はいる。
「……なに、してるの?」
「あっ…の、覗きとかじゃないぞ!」
男の子の声。
「ちょ…チョコが下駄箱に入っててさ。それでここに来いって手紙も一緒にあって…。」
「ホワイトデーなのに…?」
「バレンだろうがホワイトだろうがくれたんだから関係ないだろ?」
「……そうだね。」
関係ない…そう、関係ない。
なぜ私は会話なんてしてしまったんだろう。
壁の向こうだから、視線も無いし安心したのか…。
「…もしかして、卒業生……ですか?」
壁の向こうで男子生徒が尋ねる。
「急に敬語なんて使わなくても良いよ。」
「いやでも…。…でもなんでこんなところで泣いて…あ、友達との別れが辛いとか?」
「友達なんて…いないよ。」
「うっ……。」
「気にしないで、私暗いし。見た目も変だから友達がでたことなんてないし…慣れっこなのよ。」
自分自身の言葉に、胸が締め付けられる。
「誰も…誰も私を見つけてくれない。」
自分を制御できなかった。
最後に…最後に誰でもいいから私の声を聞いて欲しかった。
「お父さんもお母さんも…クラスのみんなも先生だって…!みんな本当の私を見てくれない…。見た目ばっかり見て勝手に判断して…。」
男子生徒は黙って聞いてくれている…。
「私だって…友達と遊びたいのにっ…私だって、お父さんやお母さんともっともっとお話ししたかったのに!」
涙が止めどなく溢れる。
息が苦しい。
涙と一緒にお腹がヒクつき、上手く呼吸ができない。
溺れそうだった。
「家に帰りたくない!……あそこはもう私のおうちじゃないの!………知らない……人が…人が怖くて…。」
言葉が…うまく伝えられない。
「私は…私も………もっと…普通に…。」
「俺が見つけます。」
「………ぇ……」
私は思わず小窓を見上げる。
「あ、いや…見つけるっていうかそのぉ…。お、俺来年卒業なんで高校で一緒に遊んだりししましょう。一緒にお昼ご飯食べて、一緒に勉強して…たまに一緒に悪さなんかしたらきっと最高ですよ!」
空っぽだった私の中に、その言葉は簡単に侵入してきた。
「違う学校に行っちゃうかもしれないのに?私を見つけられないかもしれないのに?適当なこと言わないでよ。」
私は必死になって、私の中に入ってきた彼を攻撃する。
もう、誰かにも期待なんてしたくなかった…。
「高校ってどこに行くんですか?」
「……県立の…第一高校。」
「あぁ!それなら大丈夫ですよ。俺の姉もそこに通ってるんで…今は不登校ですけど…まあとにかく俺もそこに入ると思うんできっと大丈夫です。」
「…大丈夫って…なに。」
「だから、俺と一緒に…」
「私は多分…めんどくさいよ。」
これは最後…最後の抵抗だ。
自分のためじゃない、彼のために。
「きっと君に頼ってばかりで、休み時間も昼休みも…君の教室に行くよ。君が他に友達なんて作れないくらい…。君が他の子と仲良くしてたら嫉妬しちゃうかもしれない。」
「え…ま、まぁ俺も今は友達いないから別に…大丈夫だと思います…、多分。」
「私の家、家庭環境最悪だから…君に愚痴を溢すかも…不満をぶつけるかもしれない。」
「俺の不満も聞いてもらいます。これでおあいこですね。」
「私は我が儘だから…きっと君を困らせるよ。」
「我が儘な姉と妹がいるんで慣れっこです。」
がらんどうだった私の心に、彼は入ってきた。
金銭の要求も、絵も、身体も…何も求めていない。
ただ勝手に入ってきて、わたしの心に居座る。
そこにいるなら、もう…………離さない。
離したくない。
「もし君が私を見つけられたら、私の処女をあげるよ。」
「え……えぇ!?急に何言ってるんですか!?」
「高校で私…頑張るよ。君に見つけて欲しいから。私が君にあげられるものならなんだってあげる。」
「……。」
「だから君も……。」
「あ、雪だ。」
「雪?」
「雪、降ってきました。」
小さな小窓は少しだけ開いているが、ガラス部分はすりガラスだから外の様子は分からない。
冬も…雪も嫌いだ。
自分の部屋…あの寒い部屋を思い出すから。
思えば、この小窓とトイレの個室という状況は私の部屋とよく似ている。
届かないステンドグラスに小さな部屋。
…私を閉じ込める檻。
「流石にこの辺は積らないけど、高校では一緒にスキーとか行きましょうね。」
「…雪、好きなの?」
「好きですよ。ひとつひとつは小さいのに、積もったら一面真っ白に風景を変えるとか凄いじゃないですか。雪だるまも作れるし。」
「じゃ、じゃあ…白色は好き?」
「え?」
自分の質問に脈絡がないのは分かっていた。
でも、私はその言葉を聞きたかった。
「好きですよ。色なら白色が一番好きかもです。」
白色が好き、ただ私がそう言わせただけなのに…その一言が私を溶かす。
脳が、心臓が、お腹の奥がどうにかなりそうなほどに私を蝕む彼の声。
父が私の絵を褒め求めてくれた時とも、彼らが私を見る目とも違う。
私が……
「いや。……私…ずっとこのままは嫌!だから待ってて…。」
「私が君を迎えに行くよ。」




