貴方に染まる⑥
翌日の放課後、俺はまた4階の最奥にある玉波先輩の部屋、その扉の前に立っていた。
「……。」
授業の合間や昼休みに来ることもできたが、なんだか先輩と顔を合わせるのが不安に感じて会うことができなかった。
しかし、それでは昨日までとなんら変わらない。
やっと先輩と面と向かって話すことができた直後の父親の来訪で出鼻を挫かれてしまったが、やはり直接会って会話をすることは大事だ。
(…でも何を話せばいいんだ…。)
正直なところ昨日の父親との話題は出したくない。
先輩の機嫌を損ねたくないと言うのはもちろんだが、話の展開によってはもう先輩と会えなくなってしまう可能性すらある。
気まずい雰囲気により合うのを躊躇っていた昨日よりも緊張しながら、俺は木製の扉をノックした。
「鍵はかかってないわよ。」
昨日とは違い、すぐに先輩の返事が返ってくる。
どうやら奥の部屋ではなく、キャンバスに囲まれた前室にいるらしい。
「お邪魔します。」
扉を開けて室内に入ると、やはり絵の具の独特な香りが漂っていた。
「…今日は来てくれないと思っていたわ。」
玉波先輩が俺に背を向けたまま言う。
その手にはパレットと筆を持っており、絵を描いている途中だった。
「や、休み時間とかちょっと時間が取れなくて…。あ、今大丈夫でしたか?」
時間がないなんて嘘だが、気まずくて来れなかったなんて正直に言う必要もない。
「大丈夫よ、むしろ話し相手が欲しかったの。ほら、こっちに来て座って。」
見れば玉波先輩の座る椅子の横にもう一つ椅子がある。
断る理由もないのでその椅子に座れば、先輩の横顔を眺める形になった。
玉波先輩は机の上に置かれた花瓶と花を描いていたが、俺には絵の教養がないためす「すごく上手い」ぐらいの平凡な感想しか出てこない。
「そういえば、先輩が絵を描いてるところ何気に初めて見ました。」
「そうだったかしら?だとすれば良い機会ね、私は別に奥の部屋で寝ているだけじゃないのよ。」
俺の記憶の中には紅茶を飲むか寝るかのどちらかしかなかったので確かに良い機会だ。
今日は先輩の新たな一面を見られるかもしれない。
奥の部屋と比べてあまりクーラーの効きが良くないが、廊下と比べれば格段に涼しい部屋の時間はとてもゆっくり過ぎていく。
俺はもちろん、先輩からも父親…玉波宗二の話題はない。
「家内もなにか描いてみる?道具も好きに使って良いわよ。」
「え?いやいや、俺はいいですよ。あんまりというか全然自信ないですし。」
「別に上手いか下手かなんて関係ないでしょ?一緒に描けばきっと楽しいし。」
ここで今日初めて先輩が手を止めて俺を見る。
「はい、これ持って。」
先輩はまさにたった今使っていた筆を俺に渡そうとしてきた。
「え?」
「え?じゃないわよ、早く受け取りなさい。」
「分かりましたよ…。」
どうやら確定したことらしく、俺は先輩から渋々筆を受け取る。
「じゃあ…ここに立って。」
先輩が立ち上がり、椅子をどける。
「まさか今先輩が描いてたそれに?」
「そうよ、準備もしなくていいし手っ取り早いじゃない。」
俺なんかが手を加えてしまっていいのか?なんて考えながらキャンバスの前に立つ。
「良い?それじゃあ…」
「た、玉波先輩!?」
玉波先輩は俺より背が低い。
というよりも同年代と比べて身体が小さい。
手足の長さなどももちろん変わってくる。
スレンダーな体型であるため手足が長く見えたりするが、基本的にはその身長にあった長さだ。
そんな先輩が俺の後ろに周り、俺の手を上から握って筆を動かそうとすれば本人が意識していなくても自然と密着した態勢に立ってしまう。
「ほらほら動かないで。ちゃんとモチーフを見て。」
先輩はいたって真面目に俺に教えようとしてくれているが、全く集中できない。
もうほとんど後ろから抱きつかれているような状態だった。
体温を感じる距離とかいうレベルではない。
先輩が手動で筆…というか俺の手を動かしているため絵が台無しになるということはないが、きっとこの緊張からくる手の震えは先輩にバレている。
「………。」
「………。」
ほとんど会話することもなく、先輩の手の動きに合わせて肌が動く。
今、五月蝿いくらいに頭の中で反響している鼓動が自分のものなのか、それともそうではないのかは判別できない。
「私は、初めては家内が良い。」
突然先輩が呟く。
「え!?」
「お父さんに言われたんでしょ?私の初めてを買わないかって。」
一番触れたくなかった話題だ。
「高校生相手に馬鹿な人よね、みっともないわ。」
空いていた先輩の左手が腰から回り込んで腹部に触れる。
「誰かに買われるなんて嫌…。分かるでしょ?それに前、言ったわよね。私は家内の初めてを他の女に盗られるも嫌なの。」
服の上から腹部を撫でた先輩の手が這うように登る。
「ま、待ってください!」
慌てて先輩から離れる。
手に持っていた筆が落ちて、赤褐色の絵の具が床についた。
「どうして?家内は私を助けてくれないの?」
「いやでも…。」
これは…違うのではないか。
今ここで先輩の希望通りのことをしたとして…それは先輩を助けたことにはならないのではないか。
今の先輩の様子を見れば、あの父親との同棲が決して良い環境ではないことは確かだ。
「家内は私のこと嫌い?」
「き、嫌いなわけないじゃないですか!」
「じゃあ良いじゃない。」
自暴自棄とも取れる言動…部屋に入った時は先輩は冷静そうに見えたが、本心は全くの別だったのかもしれない。
「胸は確かに小さいし、抱き心地も良くないかもしれない、下手かもしれないけど家内のためなら私は頑張るから。」
「だから…そういうことじゃなくて…。」
どうすれば良いのか。
どう切り抜けるのが正解なのか。
玉波先輩が二歩ほど前に歩き、手を伸ばせば触れられる距離まで近づく。
「私の親を実際に見た家内に…付き合ってだなんて無理は言わない。だからせめて…」
先輩が手を伸ばした時俺は押し倒されるのかと思い警戒したが、それが仇となった。
「うわっ!?」
先輩は俺を手前に引っ張ったのだ。
視界が動いた時にはもう遅く、俺が先輩を押し倒すような形で床に倒れた。
「な…何してるんですか!?」
人間は前方に倒れる時に咄嗟の反応で手を前に出すが、そんな人体に備わった自然な防御反応に頼る暇もない。
このまま倒れれば間違いなく玉波先輩を押しつぶしてしまう上に、後頭部を床に打ち付けてしまう可能性があったからだ。
先輩の後頭部に右手、背中に左手を回したがそんなに衝撃を逃がせたようにも思えない。
「大丈夫ですか?どっか痛かったりしないですか?」
俺の心配を他所に、玉波先輩の両腕が俺の首に縋るように絡みつく。
「家内、お願い。」
夏休み前、玉波先輩に無理やりキスされた時のことを思い出す。
「今日だけ…一瞬だけでも良いから」
あの時も先輩は…俺が何を言っても止まらなかった。
「私に夢を見させて。」
次回投稿は月曜日です。




