無知④
「託児所……?」
野宮さんの口から急に出てきたワードに一瞬理解が追いつかない。
「…覚えてませんか?」
野宮さんは不安気な表情を浮かべる。
「小学校…託児所……あ…。」
フラッシュバックしたのは、あの夢の風景だった。
「思い出してくれましたか!?」
「あ…いや、ごめん…実は小学校の頃の記憶が曖昧で…」
「そう…ですか…。」
泣きそうなほど元気を無くす野宮さん。
どうやら彼女の中で託児所という存在はかなり重要なものらしい。
小学校の頃の記憶が曖昧というのは、その頃の家庭事情に起因する。
俺が小学校低学年の時、俺の両親はすこぶる仲が悪かった。喧嘩の絶えない両親の姿ばかりが鮮明で、家にいるのが嫌で嫌で仕方がなかったことだけを今も覚えている。
あの頃のことを思い出そうとすると、頭痛がする程度にはトラウマになっている。
『陽満君、大きくなったら私と……』
ふと、夢に出てきた少女の言葉を思い出す。
「野宮さん…託児所で俺となにか約束とかしなかった?」
俯いていた野宮さんがピクリと動き、呟く。
「…ました。」
再度こちらに向いた顔は、思わず見惚れるほど可愛らしい笑顔だった。
「結婚しようと約束しました。」
ん?
「え…は?…結婚?」
「はい!」
彼女の両手に包まれていた左手が持ち上げられ、指を絡ませるようにして手のひらを合わせられる。
「大きくなったら私を家内君のお嫁さんにしてくれると、そう私と約束してしてくれました。」
満面の笑み、そこには一切の邪念が感じられない。
…本当に、本当にそんな約束をしたのか過去の俺は。
いくら小学生とはいえ…ええ?
「ちょ、ちょっと待って!流石に結婚は…う!?」
一瞬だった。
床…ではなくベンチに押し倒された。
「…の、野宮さん?」
「大丈夫です…。」
「え?」
「私に任せてもらえれば大丈夫です!優しくしますから!」
「何を!?」
野宮さんの鼻息が荒い。
耳まで真っ赤だし目も焦点が合っていない。
「落ち着いて!ほ、ほらもうそろそろ休み時間も終わるし!」
「サボりましょう!」
「ダメだって!」
他クラスで優等生と噂されるほどの生徒と同一人物とは思えない。
野宮さんの顔がどんどん近づくいてくるので手で顔を守ろうとするが、すぐに組み伏せられ固定される。
信じられないほど力が強い。
「私のものになってくださいっ!!」
初めて俺を迎えに来た朝はあんなに緊張して恥ずかしがっていたのに、今の彼女にはそんな姿すら思い浮かばない。
獲物を見るような目は血走っており、とても冷静とはいえなかった。
野宮さんの目が、少しずつ落ちてくる。
ゆっくり、時間が何倍にも引き伸ばされたように感じるほどゆっくりに感じた。
「は〜い、そこまで。」
「きゃうっ!?」
首根っこを掴まれたのか、野宮さんは可愛らしい声をあげて俺から引き離された。
「校内で何やってんだ?お前ら。私の特等席でイチャつくとか大罪だぞ。羨ましい。」
「…助かりました。会長…。」
「あ?なんでお前が女に覆い被されてんだ。家内、お前いつのまに彼女なんてできたんだ?」
手に持った野宮さんと俺を交互に見ながら会長と呼ばれた女子生徒は驚愕の表情を浮かべていた。
剣崎嵐、この学校の生徒会長にして俺がこの屋上に初めて来た時に出会った…正直言って苦手な人だ。




